吉川英治『三国志(新聞連載版)』(859)臨江亭(りんかうてい)会談(二)
昭和17年(1942)7月12日(日)付掲載(7月11日(土)配達)
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関羽のそばには、養子の関平が侍立してゐた。
諸葛瑾は、玄徳の書簡を示して、さて、
「このたび荊州の内、三郡だけを、呉へお還し給はることになりましたから、早速、その御手配をねがひたい」
と、云つた。
関羽は、〔うん〕も〔すん〕も云はない。瑾を睨(ね)めつけてゐるのだ。瑾がかさねて、
「もし、将軍がお肯(き)き入れなく、三郡すらお還し下さらぬときは、瑾の妻子は立ち所に誅せられ、私も呉へ帰る面目はありません。どうか、苦衷を察してください」
と、泣訴した。
関羽は、剣の柄(つか)を叩いて、
「成らんつ。断じて還さん。それはみな呉の計略といふもの。ふたたび無用な口を開くと、この剣が答へるぞ」
と、大喝した。
関平は父をなだめた。
「この御方は、孔明軍師の兄上(このかみ)です。およしなさい」
「知つてをる。孔明の兄でもなければ、生かして帰すところぢやない」
と、関羽はなほ恐ろしい形相を収めないのである。
諸葛瑾は、とりつくしまもなく、こゝを去つて再び蜀へもどり、玄徳へ訴へようとしたが、その玄徳は折から病中とあつて典医が面会を許さず、弟(おとゝ)の孔明に会おうとすれば、その孔明は郡県の巡察に出張して、しばらくは成都に帰るまいといふ。
千里の往来も空しい旅となつて、瑾はぜひなく一応、呉へ帰つて来た。呉主孫権は、それもこれもみな策士孔明の〔からくり〕にちがひないと、足ずりして怒つたが、
「さりとて、汝にも、汝の妻子にも罪があるわけではない」
と、仮に獄中へつないでおゐた瑾の家族はみな家へ帰した。
孫権はまた、諸官吏を、荊州へ派して、
「すでに玄徳が還すといつた長沙、零陵、桂陽の三郡は、臣下の関羽が、なんと拒まうと、正しく呉が接受すべきものである。強硬に交渉して、関羽の下の地方官吏を追ひ払ひ、汝らの手で郡の政庁を奪(と)つて代れ」
と、厳命した。
もちろん軍隊も付いて行つた。しかし程(ほど)経てからそれらの官吏はみな逃げ帰つて来た。反対に関羽の部下に追ひ払はれて来たのだといふ。しかも軍隊などは殆(ほとん)どひどい目に遭はされて、生きて帰つて来た兵は三分の一しかなかつた。
「とても、尋常一様な手段では、荊州は還りますまい。私に御一任賜るなら、遠く溯(のぼ)つて、陸口(リクコウ)(漢口ノ上流)の塞(サク)外(ガイ)、臨江亭に会宴をまうけ、一日、関羽を招いてよく談じ、もし肯(き)かなければ、即座に彼を刺し殺してしまひますが……いかゞでせうお任せ下さいますか」
これは魯粛の進言である。
呉中一といつても二と下らない賢臣の言だ。反対者もあつたが、孫権は然るべしと、その計を採用することに決し、
「いまを措いて、いつの日か荊州をわが手に取(とり)還さん。はや行け」
と、励ました。
船に兵を積み、表には、親睦の使と称(とな)へて、魯粛は、揚子江を遠く溯(のぼ)つて行つた。そして陸口城市の河港に近い風光明眉(ママ)の地、臨江亭に盛大な会宴の準備をしながら、一面、呂蒙だの甘寧などの大将に、
「もし関羽が見えたときは、かくかくにして」
と、すべての計(ケイ)をとゝのへてゐた。
臨江亭は湖北省にある。荊州はいうまでもなく湖南の対岸。——魯粛の使は、舟行して江を渡つた。しかもその使は、殊(こと)さら華やかに装ひ、従者に麗しい日傘を翳(かざ)させて、いかにも悠暢(イウヤウ)に、会宴の招待にゆく使らしく櫓(ロ)音(おと)も平和に漕いで行つた。
彼はやがて、荊州の江口から城下に入り、謹んで、書を関羽に呈した。書面の内容はもとより魯粛の名文を以て礼を尽し、蜜の如き交情を叙(の)べ、どうしても断れないやうに書いてあつた。
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なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

