吉川英治『三国志(新聞連載版)』(858)臨江亭(りんこうてい)会談(一)
昭和17年(1942)7月11日(土)付掲載(7月10日(金)配達)
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蜀の玄徳は、一(イチ)日(ジツ)、やゝ狼狽の色を、眉にたゝへながら、孔明を呼んで云つた。
「先生の兄上(このかみ)が、蜀へ来たさうではないか」
「昨夜、客館に着いたさうです」
「まだ会はんのか」
「兄にせよ、呉の国使として参つたもの。孔明も蜀一国の臣。私(わたくし)に会ふわけにはまゐりません」
「何しに見えたのであらう」
「もとより荊州の問題でせう」
孔明は、座へ寄つて、玄徳の耳もとへ、何かさゝやいた。
「……さういふお気持で」
「む、む。わかつた」
玄徳はいさゝか眉をひらいた。
その晩、孔明はふいに、客舎にある兄を訪ねた。孔明に会ふと、諸葛瑾は、声を放つて、大いに哭いた。
「兄上。いつたい、どうなすつたのです」
「聞いてくれ、亮。わしの妻子一族がみな呉で投獄された」
「荊州を還さぬといふ問題をとらへてゞすか」
「さうぢや。亮……察してくれよ」
「お気づかひには及びません。荊州さへ還せばみな獄から解かれませう。兄上の妻子にまで語災難の及んでゆくのを、何で孔明が坐視してをりませう。君へ申しあげて、きつと荊州は呉へ還します」
「おゝ……さうしてくれるか」
諸葛瑾は、涙を喜色に更(か)へて、弟に謝し、次の日ひそかに玄徳へ会つた。そして、
「これは、呉侯からの御書簡ですが」
と、孫権からの一書を呈すると、玄徳はそれを披見して、忽ち色を作(な)した。
諸葛瑾は、はつとした。側にゐた孔明も、眼をみはつた。玄徳の手にその書簡は引裂かれ、その眸は、天の一方を見て、独(ひと)り語(ごと)にかう叫んだ。
「無礼なり孫権。——元より荊州はいつか呉へ還さんとは思つてゐたが、汝、いたづらに小策を弄し、わが夫人(つま)を欺(あざむ)いて、呉へ呼返すなど、玄徳の面目を無視し、夫婦の情を虐げ、いつかはこの恨みをと、骨髄に刻んでゐた玄徳の心を知らないかつ。——むかし一荊州にありし時だに、汝ごときは物の数としてゐたわれでない。いはんや今、蜀四十一州を併せて、精兵数十万、肥馬無数、糧草は山野に蓄へて、国人(くにびと)みな時にあたるの覚悟をもつ。汝、いかに狡智を弄すとも、力をもつて荊州を取ることを得んや」
「……」
胸中の憤怒を一時に吐いたやうな玄徳の激色に、ふたりは打たれたやうに一瞬沈黙してゐたが、そのうちに孔明が悴然と面(おもて)を掩(おほ)つて哭きかなしんだ。
「もし兄上(このかみ)を初め、妻子一族まで、呉侯のために誅せられたら、孔明はどんな面(おもて)をして、独り世に生き残つてをられませう……哀しいかな、この絆(きづな)。あゝ苦し、この事の処置」
仰いでは、涙を嚥(の)み、伏しては肩を打ちふるはせた。
玄徳は、なほ怒気(ドキ)忿々(フン/\)と、色を収めなかつたが、次第に感情を抑制して、孔明の心も不愍(フビン)と察しやるかのやうに、
「さう嘆かれては、予の胸もつらい。さりとて荊州は還し難し、軍師の悲嘆は黙し難し……。さうだ、ではかうしてつかはす。荊州のうち長沙、零陵、桂陽の三郡だけを、呉へ還してくれる。それなら呉の面目も立ち、瑾の妻子も助けられやう」
「かたじけなう存じます」と孔明は拝謝し、また感激して、
「では、その趣きを、御書簡にしるして、兄上(このかみ)へおさづけ下さい。——兄上(このかみ)はそれを携へて荊州へ赴き、関羽と談合の上、移譲の手続を運びませうから」
と、云つた。
玄徳はすぐ書簡を書いて、瑾へ渡したが、
「予の義弟(おとゝ)の関羽は、心性率直、情熱は烈火に似、われすらなほ懼(おそ)るゝほどの男だから、衝突しないやうに、よく気をつけて語るがいいぞ」
と注意してやつた。
諸葛瑾は、成都を去つて、山覊舟行(サンキシウコウ)数十日、荊州へ着くや、すぐ城を訪れて関羽に対面した。
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