吉川英治『三国志(新聞連載版)』(857)成都陥落(四)
昭和17年(1942)7月10日(金)付掲載(7月9日(木)配達)
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孔明はなほ云つた。
「民に、恩を知らしめるは、政治の要諦であるが、恩に狎(な)れるときは、民心が慢じてくる。民に慢心放縦(マンシンハウジウ)の癖がついた時、これを正さうとして法令を遽(にはか)にすれば、弾圧を感じ、苛酷を誹(そし)り、上意下意、相もつれて熄(や)まず、すなはち相剋して国はみだれ出す。——いま戦乱のあと、蜀の民は、生色をとりもどし、業についたばかりで、その更生の立ち際に、峻厳な法律を立てるのは、仁者の政(まつりごと)でないやうであるが、事実は反対であらう。すなはち、今ならば、民の心は、どんな規律に服しても、安心して生業を楽しめれば有難いといふ自覚を持つてゐるし、前の劉璋時代とちがつて賞罰の制度が明らかになつたのを知れば、国家に威厳が加はつて来たものとして、むしろ安泰感を盛んにする。これ、民が恩を知るといふものである。——家に慈母があつても、厳父なく、家の衰へみだれるを見る子は悲しむ。家に厳父あつて、慈母は陰にひそみ、我(わが)儘(まゝ)や放埓(ハウラツ)ができなくとも、家訓よく行はれ、家栄えるときは、その子等みな楽しむ。……一国の政法も、一家の家訓も、まづ似たやうなものではあるまいか」
「おそれ入りました。深いおこゝろも辨(わきま)へず、無用なことを申上げ、却(かへ)つて、恥ぢ入りました」
法正は心から拝服して、以来、孔明を敬ふこと数倍した。
数日の後、国令、軍法、刑法などの条令が布告され、西蜀四十一州にわたつて、兵部が設けられた。内は民を守り、外は国防にあたり、再生の「蜀」はこゝに初めて国家の体をそなへた。
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千里の上流から、江を下つて、漢中、西蜀あたりの情報はかなり迅く、呉へも聞えて来る。
「玄徳はすでに成都を占領した」
「着々、治安を正し、蜀中に新政を布告したといふ」
「元の太守劉璋は、後方へ送られて、荊州の公安へ移つて来たといふではないか」
呉の諸臣は、政堂に会するたび、おたがひの早耳を交換してゐた。
一日、呉主孫権は、衆臣の中でかう云つた。
「蜀の国を取れば、かならず荊州は呉へ返す。——これは玄徳が、かね/゛\呉に向つて、口癖に云つてゐた約束である。然るに、今、蜀四十一州を取りながら、まだ何等の誠意も示して来ない。予の忍耐にもかぎりがある。いつその事、大軍をさしむけて、荊州をこつちへ収めてしまはうと考へるが、各々の所存はどうか」
すると、宿将張昭が、
「まだ、まだ」
と、独り頭(かうべ)を振つてゐた。
孫権がみとめて、
「昭(セウ)老(ラウ)はこの事に不同意であるか」
と、問ひかけた。
彼は、うなづいた。
「蜀、魏、呉の三国のうちで、いま最も恵まれてゐる国は呉です。呉の位置です。国は安寧で、民は富を積み、兵は充分に英気を養つてゐられるところです。求めて大軍を起すにあたりますまい」
「しかし、この儘(まゝ)にしておゐたら、いつの日、荊州が呉に回(かへ)るぞ」
「手を袖にして、荊州を取返して御覧にいれませう」
「そんな名案がある?」
「あります。——玄徳の恃(たの)みとする人物は諸葛(シヨカツ)孔明(コウメイ)一(イチ)人(ニン)といつていゝでせう。その孔明の兄諸葛瑾は、久しく君に仕へて、呉にゐるではありませんか。いま罪を称へて、彼を蜀へ使に立て、もし荊州を還さなければ、孔明の兄たる筋をもつて、この瑾を初め妻子一族は残らず斬罪に処されます——と彼に云はせてごらんなさい」
「なるほど。……孔明は情に悶へ、玄徳は義理に悩まう。……その計は大いによい。しかし瑾は、この孫権に仕へてからまだ一遍の落度すらない誠実な君子。なんでその妻子を獄に下せようか」
「いや。君のお旨を、よく申し聞かせ、計(はかりごと)の為なりと、得心の上で、仮の獄舎(ひとや)へ移しておくなら、何の碍(さまた)げもないでせう」
次の日、諸葛瑾は、君命をうけて、呉宮の内へ召されてゐた。
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