吉川英治『三国志(新聞連載版)』(856)成都陥落(三)
昭和17年(1942)7月9日(木)付掲載(7月8日(水)配達)
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封爵、栄進の恩に浴した将軍たちの名はいち/\挙げきれないが、玄徳は、この栄を留守の関羽に頒(わか)つことも忘れなかつた。
関羽のみでなく、その下にあつて、よく後方を守つてくれた将士軽輩にゐたるまで、恩典から洩れないやうにした。そのために成都から黄金五百斤、銭(ぜに)五干万、錦(にしき)一千匹を荊州へ送つた。
なほ、蜀中の窮民には、倉廩(サウリン)をひらゐて施し、百姓の中の孝子や貞女を頌徳(シヤウトク)し、老人には寿米(ジユマイ)を恵むなど、善政を布(し)いたので、蜀の民は、劉璋時代の悪政とひきくらべて、新政府の徳をたゝへ、業を楽(たのし)み、歓びあふ声、家々に満ちた。
何にしても、蜀の国始まつて以来の盈光(エイクワウ)が全土に漲(みなぎ)つた。新しい文化の光、人文の注入も、あづかつて力がある。
「予は初めて、予の国をもつた」
玄徳も万感を抱いたであらう。国ばかりでなく、このときほど又、彼の左右に人物の集まつたこともない。
軍師孔明。
盪冦将軍(トウクワウシヤウグン)寿亭侯(ジユテイコウ)関羽。
征虜将軍(セイリヨシヤウグン)新亭侯(シンテイコウ)張飛。
鎮遠将軍(チンエンシヤウグン)趙雲。
征西将軍(セイセイシヤウグン)黄忠。
揚武将軍(ヤウブシヤウグン)魏延。
平西将軍(ヘイセイシヤウグン)馬亭侯(バテイコウ)(ママ)馬超。
そのほか、孫乾(ソンケン)、簡雍、糜竺、糜芳、劉封、呉班(ゴハン)、関平、周倉、廖化、馬良、馬謖(バシヨク)、蒋琬(シヤウエン)、伊籍、汎々(ハン/\)——などの中堅以外には、新に玄徳に協力し、或(あるひ)(ママ)は、戦後降参して、随身一味をちかつた輩(ともがら)にて、
前将軍厳顔。
蜀郡太守法正。
掌軍中郎将(シヤウグンチウラウシヤウ)董和(タウクワ)。
長史(チヤウシ)許靖。
営中司馬(エイチウシバ)龐義(ハウギ)。
左将軍劉巴。
右将軍黄権。
などといふ錚々たる人物があるし、なほ、呉懿、費観(ヒクワン)、彭義(ホウギ)、卓膺、費詩(ヒシ)、李厳、呉蘭、雷同、張翼、李恢、呂義(リヨギ)、霍峻、鄧芝(トウシ)、猛達(マウタツ)(ママ)、楊洪(ヤウコウ)あたりの人々でも、それぞれ有能な人材であり、正に多士済々の盛観であつた。
「自分が国を持つたからには、それらの将軍たちにも、田宅(デンタク)を頒(わ)け与へて、その妻子にまで、安住を得させたいが」
ある時、玄徳がかう意中をもらすと、趙雲はそれに反対した。
「いけません/\。むかし秦の良臣は、匈奴の滅びざるうちは家を造らず、と云ひました。蜀外一歩出れば、まだ凶乱を嘯(うそぶ)く徒、諸州にみちてゐる今です。何ぞわれら武門、いさゝかの功に安んじて、今、田宅を求めませうか。天下の事こと/゛\く定まる後、初めて郷土に一炉を持ち、百姓とともに耕すこそ身の楽(たのし)み、また本望でなければなりません」
「善い哉(かな)、趙雲の言」
と、孔明もともに云つた。
「蜀の民は、久しい悪政と、兵革の乱に、ひどく疲れてゐます。いま田宅を彼等に返し、業を励ませば、忽ち賦税も軽しとし、国の為に、いや国の為とも思はず、ただ孜々(シゝ)として、稼ぎ働くことを無上の安楽といたしませう。その帰結が国を強うすること申すまでもありません」
なほこの前後、孔明は、政堂に籠つて、新しき蜀の憲法、民法、刑法を起算してゐた。
その条文は、極めて厳であつたので、法正が畏(おそ)る/\忠告した。「せつかく蜀の民は今、仁政をよろこんでゐる所ですから、漢中の皇祖のやうに法は三章に約し、寛大になすつてはいかゞですか」
孔明は笑つて教へた。
「漢王は、その前時代の、秦の商鞅(シヤウワウ)が、苛政、暴政を布(し)いて、民を苦しめたあとなので、いはゆる三章の寛仁な法をもつて、まづ民心を馴(な)づませたのだ。——前蜀の劉璋は、暗弱、紊政(ブンセイ)。殆(ほとん)ど、威もなく、法もなく、道もなく、却(かへ)つて良民のあひだには、国家にきびしい法律と威厳のないことが、淋しくもあり悩みでもあつたところだ。民が峻厳を求めるとき、為政者が甘言をなすほど愚(グ)なる政治はない。仁政と思ふは間違ひである」
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