吉川英治『三国志(新聞連載版)』(855)成都陥落(二)
昭和17年(1942)7月8日(水)付掲載(7月7日(火)配達)
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この間にも、劉璋を見限つて、城中を抜け出す投降者は続出してゐた。蜀郡の許靖(キヨセイ)までが城を踰(こ)えたと聞いて、劉璋は、
「成都も今が終りか」
と、一晩中、動哭(ドウコク)(ママ)した。
あくる日、簡雍と名乗つて、一輛の車が、城門の下へ来た。劉璋が門を開かせて、
「ともあれ迎へよ」
といふので、案内すると、簡雍は車のまゝ城中へ通つたのみか、ひどく尊大ぶつて、迎への将士を睥睨(ヘイゲイ)してゆくので、ひとり猶(なほ)気概のある大将が、
「こらつ、こゝをどこと心得る。蜀の本城に人はゐないと思ふかつ」
と、剣を抜いて、車上の者の鼻(はな)面(づら)へつきつけた。
簡雍はあわてゝ車から飛(とび)降り、無礼をわびて、急に慇懃(インギン)になつた。
「先生のこれへ来られたのは何事ですか」
しかし劉璋は、彼を軽んじることなく、堂上に請(セウ)じて、大賓(ダイヒン)の礼を執つた。
「謹んで太守の賢慮を仰ぎ、蜀中の民を救はんが為です」
簡雍は、口を極めて、玄徳の人間を称(たゝ)へ、その性は寛弘(クワンコウ)温雅(ヲンガ)、心をもつて結べば、決して相害するやうな奸人ではないと告げた。
劉璋は、一晩、簡雍を泊(とめ)て、次の朝、翻然と悟つたものゝごとく、印綬、文籍を簡雍に渡し、ともに城を出て降参の意を表した。
玄徳はみずから迎へ立ち、劉璋の手をとつて云つた。
「私交としては、人情にうごかされるが、時の勢と、公(おほやけ)なる立場から、きのふ迄(まで)、成都を攻め、今日、あなたの降(カウ)を容(い)れることゝなつた。かならず個人同志の情誼と、公人的な大義とを混同して、この玄徳を恨みたまふな」
玄徳の眼には、熱い涙すらみえたので、劉璋は、むしろ降伏の時を遅くしたことを、自身の罪と思つたほどであつた。
成都の民は、平和を謳歌した。香を焚き、花を剪(き)つて、道を清めた。玄徳と劉璋は、馬をならべて城中へ入つた。
「蜀は、革(あらた)まつて新しき統治の下に、けふを以て、その更生第一日とする。なほ昨日にひとしい錯覚をいだいて、この一新に不平あるものは去れ」
府堂に上(のぼ)つて、玄徳はかう宣言した。
蜀中の大将文官は、ほとんど階下に集まつて、異存ない旨を誓つたが、たゞ黄権と劉巴だけが、自邸に籠つて、門を閉ぢたまゝ、こゝに姿を見せてゐなかつた。
「憎むべき反骨」
「なほ異心あるにちがひない」
騒然と、その二人に対して、非難の声が起(おこ)つたが、玄徳は、険悪な風気を豫察して、
「もし私的に、二人へ危害を加へなどしたら、その者は大罪に処して、三族をも亡(ほろぼ)すであらう」
と、かたく盲動を禁じた。
式が終ると、彼は自身足を運んで、劉巴の門前に立ち、また黄権の家の門にも立つた。そして諄々(ジユン/\)と、時代の一転を説き、新政の意義を諭し、更に、これに逆行しようとする小さい反抗の小我に過ぎないことを云ひ聞かせた。
「噫(あゝ)、われ誤る」
と、まづ黄権が出て、門外に額(ぬかづ)き、つゞいて劉巴も恭順をちかつた。
成都は収められた。かうして、蜀中は平定した。
孔明は、玄徳へすゝめた。
「いまはもうよい時です。劉璋を荊州へお送りなさい」
「蜀の実権は、すでに劉璋にないのだから、敢(あへ)て、遠くへ送る必要もないのではなかろうか。不愍(フビン)に思はれる」
「一国に二人の主(シユ)なし。そんな婦人の仁に囚(とら)はれてはいけません」
「……げにも」
玄徳はうなづいた。しかし彼としては、勇気を要した。
孔明がすべてを取計らつた。即ち劉璋を振威将軍(シンヰシヤウグン)に封じ、妻子一族をつれて、荊州へ赴くやうにといふ令をくだしたのであつた。
こゝに劉璋は蜀を去つて、荊州の南郡に移り、まつたく其(その)地位と所を更(か)へて餘生する身となつた。
玄徳は次に、恩爵授与の大令を発した。譜代の大将部将幕賓はもちろん、降参の諸将にまでその封爵と行賞はあまねくゆき亙(わた)つた。
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