吉川英治『三国志(新聞連載版)』(854)成都陥落(一)
昭和17年(1942)7月7日(火)付掲載(7月6日(月)配達)
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馬超は弱い。決して強いばかりの人間ではなかつた。理に弱い。情にも弱い。
李恢はなほ説いた。
「玄徳は、仁義にあつく、徳は四海に及び、賢を敬ひ、士をよく用ひる。かならず大成する人だ。かういふ公明な主をえらぶに、何でうしろ暗い憚(はゞか)りをもつことがある。第一、玄徳に力を添へて曹操を討つは、大きくは四民万象のため、一身には、父母の仇(あだ)を報じる大孝ではないか」
唯々(いゝ)として、彼はもう李恢と駒をならべて、関中へ向つてゐた。
伴はれて、玄徳に会つた。
この英気ある青年の良心的な降伏に対して、間の悪いやうな思ひをさせる玄徳でもない。
「ともに大事をなし、他日の曠世(クワウセイ)を楽しまうではありませんか」
殆(ほとん)ど、上賓の礼をもつて、彼を遇した。
青年馬超の感激はいふまでもなかつた。恩を謝して、堂を降るとき、
「いま初めて、雲霧を払つて、真の盟主を仰いだこゝちがする」
心からさう云つた。
そこへ腹心の馬岱(ばたい)が、一箇の首級を齎(もたら)して来た。すなはち漢中軍の軍監楊柏の首だつた。
「以て、それがしの心證としてごらんください」
馬超はそれを玄徳に献じた。
かうして、葭萌関の守備も、いまは憂も除かれたので、玄徳は最初のとほり霍峻と孟達の二将にあとの守りをまかせて、その餘の軍勢すべてをひきゐ、ふたゝび綿竹の城へ帰つた。
綿竹へ着いた日も、こゝは合戦で、蜀の劉晙(リウシユン)、馬漢(バカン)の二将がさかんに攻めてゐた中だつた。
にも拘(かゝ)はらず、留守してゐた黄忠や趙雲(ちよううん)は、常と変らず出迎へに出たのみか、城中には、盛宴を張つて、
「おめでたう存じます」と、玄徳の凱旋に賀をのべた。
そのうちに趙雲が、
「ちよつと、中坐いたします」
と、杯をおいて、城外へ出て行つたと思ふと、やがて敵将馬漢と劉晙の首をひツさげて来て、
「賀宴のおさかなに」
と披露した。
一堂の将はみな手をたゝいた。馬超もこの中にゐたので、
「ああ、さすがに英傑がゐる」
と、ひそかに舌をまいて愕(おどろ)きもし、また、かういふ英雄たちの仲間に加はつた自分の生きがひも大きくした。
そこで、馬超は、玄徳へ向つて、
「ご奉公の手始めに、私と、私の従弟の馬岱と、ふたりして成都に赴き、劉璋に会つて、張魯の野心を語り、また漢中の内情を告げ、劉皇叔の兵と戦ふことの愚(グ)なることをよく説いてみたら——と思ひますがどうでせうか」
と、進言した。
玄徳は、孔明に諮れといふ。孔明は、賛成した。そして教へた。
「もし劉璋が、君の言に服さなかつたときは、かうかうし給へ」と。
それから十数日の後。馬超と馬岱は、蜀の府城、成都門の壕ぎはに、駒をたてゝ、
「太守劉璋に、一言せん」
と、呼ばはつてゐた。
城楼の遙(はるか)に、劉璋が立つた。
馬超は、声を張つて、
「公は、漢中の援けを待つて、籠城してをられるのだらうが、百年お待ちになつても、張魯の援軍などは参りませんぞ」
と、冒頭(まへおき)して、
「たとひ、来たところで、それは蜀を救ひに来るのでなく、蜀を横奪に来るのです。漢中の内情と、張魯一族の野望とは、公がお考へになつてゐるやうなものではない。現に、この馬超すら、彼等にあいそをつかし、楊柏を討つて、劉玄徳に従つたほどです」
とその経緯(いきさつ)を悉(こと/゛\)くはなした。
劉璋は、落胆のあまり、昏倒しかけた。侍臣にさゝへられて、楼臺の内へかくれた様が、馬超と馬岱にも見えた。
ふたりは、馬を回して、城外に陣し、劉璋の返答を待つてゐた。
城中では、主戦派、籠城派、また和平派など幾つにもわかれて、二日二晩の評定に大論争がもつれてゐた。しかし結局は、玉砕か降伏か、その二つを出なかつた。
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