吉川英治『三国志(新聞連載版)』(847)(ママ)馬超と張飛(一)
昭和17年(1942)6月30日(火)付掲載(6月29日(月)配達)
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彗星のごとく現はれて彗星のやうに搔(かき)失(う)せた馬超は、抑(そも)、どこへ落ちて行つたらうか。
ともあれ、隴西の州郡は、ほつとして旧(もと)の治安をとりもどした。
夏侯淵は、その治安の任を、姜叙に託すとともに、
「君はこのたびの乱に当つてよく中央の威権を保つた勲功第一の人だ」
と、楊阜を敬つて、車に乗せ、強ひて都へ上洛させた。そのとき楊阜は、身に数ヵ所の戦傷を負つてゐたので。
やがて、車が許都へつくと、曹操はその忠義を称(たた)へ、
「以後、関内侯(クワンナイコウ)に封(ホウ)ぜん」
と、云つた。
楊阜は、かたく辞して、
「冀城に主を失ひ、歴城に一族を鬼と化し、なほ馬超は生きてゐる今、何の面目あつて、身ひとつに栄爵を飾れませう。恥かしい極みであります」
と、恩爵をうけなかつたが、かさねて曹操から、
「御辺の進退、その謙譲。西土(セイド)の人々、みな美談となす。もしその忠節を顕(あらは)さなければ、曹操は暗愚なりと云はれよう。栄爵はひとり御辺を耀(かゞや)かすものではなく、万人の忠義善行の心を振ひ磨く励みとなすものであることをよく察せよ」
と、いふことばに、楊阜もつひに否みがたく、恩を拝して、一躍、関内侯の大身になつた。
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さて、馬超とその部下、馬岱、龐徳などの六、七名は、流れ流れて漢中に辿りつき、この国の五斗米教(ゴトマイケウ)の宗門大将軍張魯のところへ身をよせた。
張魯に年頃のむすめがある。張魯の思ふには、
「馬超は世にならびなき英傑といつてよい。年も若いし、あれを馬超にめあはせて、張家の婿とするときは、漢中の基業はまさに確固なものとならう。そして、将来の対蜀政策にも強味を加へることは云ふを俟(また)ない」
これを、一族の大将(タイシヤウ)楊柏(ヤウハク)に相談すると、楊柏は、
「さあ、どうでせうか?」
と、頗(すこぶ)る難色ある顔つきだ。
「いけないかね」
「考へものでせうな」
「どうして」
「勇はあつても、才略のない人ですからな。それに馬超その人の性行をみるに、父母妻子をかへりみず、たゞ世に功名をあせつてゐるんぢやないでせうか。自分の父母妻子にすらそのやうな人間が、どうして、他人を愛しませう」
これで縁談は止んでしまつた。
ところが、それを馬超が小耳にはさんで、楊柏に恨みをふくんだ。要らざることを云つて水をさすやつだ——といふわけである。楊柏は彼に殺されるかもしれないと思つて恐れだした。で、兄の楊松(ヤウシヨウ)を訪ねて、
「助けて下さい。何とか考へて下さい」
と、泣訴した。
ところへ蜀の太守劉璋の密使として、黄権がこの国へ来た。ちやうど其(その)日楊松は黄権と密談する約束だつたので、弟を邸(やしき)に待たせておゐて、彼の客館を訪問した。
黄権がいふには、
「先頃から正式に使を以て、たびたび張魯将軍へ援(たす)けをおねがひしてあるが、容易に蜀を援けんとはおつしやらない。今もし玄徳のために蜀が敗れたら、必然、そのあとは漢中の危機となることは、両国唇歯の関係にある地勢歴史の上から見てもあきらかなことですのに」
そして更に黄権は、もし漢中の兵をもつて、玄徳を退治してくれるなら、蜀の二十州を頒(わけ)て、漢中の領土へ附属せしめる用意がこちらにはあると、外交的な熱意と辯を尽した。
「よろしい。もういちど、張魯将軍の御前で評議してみませう」
楊松は、尽力を約して、張魯の法城へのぼつた。そしてこの懸案を再度議してゐると、折から見えた馬超が、
「それがしに一軍をお借(か)(ママ)しあれば、葭萌関を破つて、一路蜀に入り、玄徳を伐(う)つて、今日の厚恩におむくいして見せん」
と、断言した。
馬超が征(ゆ)けば、成功疑ひなしと思つた。張魯はこゝに意を決して、一軍を彼にさづけ、楊柏を軍(いくさ)奉行(ブギヤウ)として、つひに援蜀政策を実行に移した。
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