吉川英治『三国志(新聞連載版)』(849)馬超と張飛(二)
昭和17年(1942)7月1日(水)付掲載(6月30日(火)配達)
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【前回までの梗概】魏の曹操、呉の孫権の間にあつて蜀の劉璋の主権を窺ふ玄徳は今や涪城に拠つて蜀軍を破り成都にせまつた、その時忽然と現れたのは馬超である、父馬騰将軍の仇曹操を打たんと猛兵をしたがへて隴西に攻め寄せたが、戦利あらず、漢中の張魯に身を寄せ、玄徳の敵たらんとしてゐる……
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日は没しても戦雲赤く、日は出でゝも戦塵に晦(くら)かつた。
玄徳軍と、蜀軍と。
いまや成都は指呼のあひだにある。綿竹関の一線を堺(さかひ)として。
こゝが陥れば、蜀中はすでに玄徳の掌(て)にあるもの。こゝに敗れんか、玄徳の軍は枯葉(コエウ)(ママ)と散つて、空しく征地の鬼と化(な)らねばならぬ。
「や。あれは?」
玄徳は今、その本陣にあつて、耳を聾(ロウ)せんばかりな鉦鼓(かねづゝみ)を聞いた。しかし彼の眉は晴々とひらいた。そこへ麓から使者が馳せて来て大声(ダイセイ)に披露した。
「綿竹関第一の勇将(ユウシヤウ)李厳(リゲン)を、お味方の魏延が縛(から)め捕りました」
「おお、その凱歌か」
玄徳は、伸び上つて待(まち)受けてゐた。
魏延が、捕虜の李厳を曳いて来た。玄徳は魏延の功を称するとともに、李厳の縄を解いて敬つた。
「平時ならば、人の亀鑑(キカン)ともいはれる士大夫を、いかに勝敗の中とはいへ、辱(はづ)かしめるにしのびない」
李厳は、恩に感じて、随身の誓を入れ、同時に暇を乞うて、綿竹関へひとたび回(かへ)つた。
綿竹関の大将(タイシヤウ)費観(ヒクワン)と彼とは、莫逆の友である。すなはち李厳は、この友に、玄徳の高徳を説いた。
「君がそれほど賞(ほ)めるくらゐなら、玄徳はまさしく真の仁君かもしれない。もとよりお互ひに生死を共に誓つた仲だ。君のすゝめにまかせて城をあけ渡さう」
費観は伴はれて、城を出た。かくて綿竹関も、つひに玄徳の入城をゆるした。
この前後の事である。地理的に観て、殆(ほとん)ど、遠い異境の英雄とのみ思はれてゐた西涼の馬超といふ名が、忽然と、この蜀にまで聞えて来たのは。
しかも、頻々、早馬の急報によれば、その馬超が、漢中の兵馬を率ゐて、葭萌関へ殺到しつゝあるといふ。
「さては、成都の劉璋が、窮する餘りに、国を割(さ)いて漢中に附与し、張魯へ膝を屈した結果とみえる」
玄徳は孔明に、対策をたづねた。孔明は意を体して、張飛をよびよせ、「時に、相談があるが」と、云つた。
「何事ですか」
「関羽のことだが」
「関羽がどうかしましたか。荊州の留守中に」
「いや、どうもせぬが、関羽をよばねばならない事が起(おこ)つた。御辺と、留守を交代してもらはうかと思つて」
「それがしを留守に廻して関羽を召(めし)呼ばれるとはどういふわけでござるか」
もう張飛は顔色に出してゐる。不平なのだ。理由に依つてはと、開き直りそうな構へである。
孔明は、あつさり話した。葭萌関へ新にかゝつて来た敵は馬超といふ西涼第一の豪雄である。関羽ならでは、よくその馬超に敵し得まい。故に、御辺と代つてもらはうかと考慮中であるが——と云ふ。
「こは、亮軍師には、怪しからんことを云はれる。何故、この張飛を軽んじ給ふか。馬超匹夫、何ほどのことかあらん。むかし長坂橋に百万の曹軍をこの両眼(リヤウガン)で睨み返した者は誰(たれ)であるか御存じないか」
と、眦(まなじり)を昂(あ)げた。
孔明は、なほ微笑して、
「しかし馬超の勇は、おそらくその長坂橋の豪傑以上と自分には思はれるが」
と、首をかしげた。
張飛は、指を嚙んで、
「もし、この張飛が、馬超にやぶれたら、いかなる軍罰にも処したまへ」
と、誓約書をかいて、血をそゝぎ、哭(な)いて、孔明と玄徳の前にさしだした。
「それまでに云ふならば」
と、すなはち張飛に参加をゆるしたが、孔明は、入念にも、その先鋒には魏延を附し、後陣には、玄徳を仰いだ。この編制を見ても、いかに彼が葭萌関の防ぎを重視したかゞわかる。
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次回 → 馬超と張飛(三)(2026年7月1日(水)18時配信)

