吉川英治『三国志(新聞連載版)』(847)西涼ふたゝび燃ゆ(三)
昭和17年(1942)6月28日(日)付掲載(6月27日(土)配達)
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馬超の勇は万夫不当だ。当然のやうに歴城の兵はふみつぶされてしまつた。姜叙、楊阜もその敵ではなく、さんざんに敗れてひき退く。
しかし、祁山(ギサン)に陣してゐた尹奉と趙昂とは、
「この為にわれこゝにあり」
と云はんばかり、突如、鼓(コ)をならして、馬超の側面へかゝつた。
姜叙、楊阜は急に取つて返して、
「馬超、罠(わな)に落つ」
と、郷兵の士気をはげましつゝ側面へ出た味方と呼応して挟撃のかたちをとつた。
馬超の軍勢も一時は苦境に立つた。けれど、装備の悪い地方郷党軍と、完全な装備を持つた胡北(ゑびす)の猛兵とは、とうてい、比較にならなかつた。
たちまち馬超軍は、その陣形の不利をもり返して、反撃に出てきた。又も、姜叙の歴城軍は、算をみだし、死屍を積み、いまや潰滅に瀕(ヒン)してゐた。
ところへ、思はざる新手の大軍が、山をこえて、馬超軍のうしろから〔ひた〕押しに攻めてきた。これなん長安の夏侯淵であつて、
「今や、曹丞相のお下知によつて乱賊馬軍の征伐に下(くだ)る。生命(いのち)を保ちたいと願ふならば、中央政府の旗幟(キシ)のもとに拝跪(ハイキ)せよ」
と、諸将の口をもつて、陣頭に呼ばはらせた。
もとよりこの手勢は訓練もあり装備もすぐれてゐる中央軍なので、さしもの馬超軍も躁(さわ)ぎ乱れ、
「よし、その分ならば出直して——」
と大将馬超も逃げるしかなくなつた。
馬超は冀城まで引揚げてきた。ところが城へ近づくと、味方であるはずの城中から雨霰と矢を射てくる。
「莫迦(バカ)者(もの)つ。うろたへるな。よく眼をあいて我を見ろ」
叱りながらなほ城門の前へかゝると、壁上から彼の眼のまへゝ、幾つもの亡骸(なきがら)を抛(はう)り投げて来た。
「や。やつ?」
見ればその一つは、わが妻の楊(ヤウ)氏であつた。また、ほかの三つは馬超の三人の子であつた。
なほ、限りなく、城の上から死骸を抛(はう)り落してくる。そのすべてが、馬超の縁につながる肉親や一族たちであつた。
「うゝむつ……」
胸ふさがつて、さすがの馬超も馬から転げ落ちんとした。そこへ、馬岱と龐徳が追ひついて来て、
「城中の梁寛(レウクワン)、趙衢(テウク)のふたりが、留守を奇禍(ママ)として、反旗をかゝげ、夏侯淵に内応したものと思はれます。こゝにゐては御一身も危いでせう。いざ疾(と)くほかへ」
と、促して途々(みち/\)むらがる敵を払ひながら、終夜、馳けとほした。
忽然と、朝霧の中に、一城の門が見えた。馬超は大いに恐れて、
「こゝはどこか」
すると龐徳が云つた。
「敵の歴城ですよ」
「えつ、歴城?」
馬超はたじろいだ。つき従ふ味方の兵は、零々落々、わずか五六十騎。いかに励んでも勝算はないと思つたからである。
かういふ窮極の壁を突破することに依つて、龐徳は一つの打開をつかむ機智を持つてゐたらしい。馬超、馬岱を励まして、自ら先に立ち、
「姜叙の旗本である」
と、呶(ど)鳴(な)りながらどん/\城門内に入つてしまつた。
夜来、続々、勝ち戦の報を聞いて誇りぬゐてゐた城兵は、突然、自分たちの懐の内から、大混乱が起(おこ)つたので、上へ下へと騒動した。
城中へ入つた馬超の一党は、姜叙の住居を襲つて、その母を殺した。
また尹奉、趙昂の邸(テイ)を包囲し、その妻子召使まで、みなごろしにしてしまつた。たゞ、かの貞節な趙昂の妻だけは、祁山の陣へ行つてゐたので、その難をのがれた。
手薄な城兵も、みな逃げるか討たれるかして、歴城はわづか五、六十名の馬超によつて占領されたが、併(しか)し、それはたつた一夜の安眠でしかなかつた。
あくる日になると、夏侯淵、姜叙、楊阜の軍が攻めて来て、忽ちこれを奪回し、馬超は乱軍のなかをよく戦ひつゝ、一族の馬岱、龐徳などと共に、国外遠く、何処ともなく逃(にげ)落ちて行つた。
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次回 → 馬超と張飛(一)(2026年6月29日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

