吉川英治『三国志(新聞連載版)』(846)西涼ふたゝび燃ゆ(二)
昭和17年(1942)6月27日(土)付掲載(6月26日(金)配達)
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いふまでもなく姜叙と楊阜とは従兄弟(いとこ)のあひだがらになるし、また、姜叙と韋康とは、主従の関係にある。
当然、歴城の兵をひきゐて、韋康を赴援すべきであつたが、その滅亡の早かつた為、兵をとゝのへて馳(かけ)つけるに間に合はなかつたものである。
「さき程から帳(とばり)の蔭でおはなしを伺つてゐると、阜(フ)兄(ケイ)にはこの姜叙が安閑としてゐるのを、ひどく御憤慨のやうですが、さういふ貴郎(あなた)こそ、一戦にも及ばず馬超に降伏して、冀城を渡してしまつたではありませんか。それをいまとなつて、世上のことは何も知らぬ私の母などへ、私の怠慢か卑怯みたいに誹(そし)られるのは、自分のことを棚へ上げて、人の〔あら〕をさがす下司(ゲス)の根性といふものではありませんか」
若い姜叙は、母の前もわすれて、客の従兄弟を罵倒した。
すると楊阜は却(かへ)つてその意気を歓び、自分の降伏は、一時の辱をしのんで、主君の仇(あだ)を打たんがためであると説明し、
「もし叙(ジヨ)君(クン)が、郷党の兵をひきゐて、冀城へ攻めて来られるなら、自分は城中から内応しよう。何をかくさう、郷里の妻の葬ひと偽つて、馬超から暇(いとま)をもらひ、これへ君を訪ねて来たのは、そのために他ならないのだ」
と、云つた。
姜叙、もとより多感な青年である。義のためには一身を亡すも惜(をし)みはないと、茲(こゝ)に義盟を結び、ひそかに兵備にかゝつた。
歴城のうちに、姜叙が信頼してゐる二名の士官がゐる。統兵校尉の尹奉(インホウ)と趙昂(テウカウ)とであつた。
趙昂の子の趙月(テウゲツ)は、冀城落城のこのかた、馬超のそば近くに小姓として仕へてゐる。趙昂は家に帰ると、妻へ嘆いた。
「けふ姜叙の君から命をうけて、馬超を討つ兵備をせよと命じられたが、いかにせむ、わが子は敵の城に在る。もしその父が姜叙に味方してゐると知れたら、忽ち、趙月は殺されてしまふだらう。いつたいどうしたらよいか。そなたに何か名案はないか」
趙昂の妻は、聞くと涙をうかべたが、その涙をみづから叱るやうに、声を励まして、良人へ云つた。
「ひとりの子を顧みて、主命を過ち、郷党を裏切りなどしたらあなたの武士が立たないのみか、御先祖を汚(けが)し、子孫に生き恥を曝(さら)させるものではありませんか。何を迷つていらつしやるのですか。もし貴郎(あなた)が大義をすてゝ不義へ走るやうなことがあつたら、妾(わたくし)とて生きてはをりません」
多年連れ添つてきた妻ながら、彼女の良人は、自分の妻の立派なことばに今更の如く驚いた。
「よし。もう惑はぬ」
姜叙、楊阜は歴城に屯し、尹奉と趙昂は、郷党の兵をひきゐて、冀山(キザン)へ進出した。
すると、趙昂の妻は衣服や髪飾りを、のこらず売払つて、冀山の陣へ行き、
「門出の心祝ひです。どうかこれを収めて、士卒の端(はし)にいたるまで、一(イツ)盞(サン)づゝ頒(わ)けてあげて下さい」
と、途中、酒賈(さかや)から購(あがな)つてきた酒壺(シユコ)をたくさんに陣中へ運ばせた。
「これは、昂校尉の奥さんが髪かざりや衣服を売払つて、われわれの餞別(はなむけ)に持つて来て下すつたお酒だぞ」
さう云ひ聞かされて、兵隊たちへ酒を頒(わか)つと、みな感激して、涙と共に飲み、士気は慨然(ガイゼン)とふるひ昂(あが)つた。
一方、この事はすぐ冀城に聞えたので、馬超の怒りはいふ迄(まで)もない。
「趙昂の子、趙月の首を刎(は)ねて、血まつりにしろ」
一令、全軍を血ぶるひさせた。
龐徳、馬岱はすぐ発向した。馬超ももちろん猶豫してゐない。殺気地を捲(ま)いて歴城へかけてきた。
するとあだかも白鷺(しらさぎ)の大群のやうな真つ白な軍隊が道を阻(はゞ)めて待つてゐた。見れば、姜叙、楊阜以下、すべて白い戦袍(センハウ)に白い旗をかかげて、
「亡主の仇(あだ)馬超を討ち、もつて泉下の霊をなぐさめん」
と、弔(とむらひ)合戦を決意した郷兵軍が、悲壮な陣を布いてゐたものであつた。
「洒落(しやれ)くさい匹夫らめが」
馬超は一笑して、雪を蹴立つがごと、白色軍を蹴ちらし始めた。
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