吉川英治『三国志(新聞連載版)』(845)西涼ふたゝび燃ゆ(一)
昭和17年(1942)6月26日(金)付掲載(6月25日(木)配達)
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忽然と、蒙古高原にあらはれて、胡夷(えびす)の猛兵をしたがへ、隴西(ロウセイ)(甘粛省)の州郡をたちまち伐(き)り奪(と)つて、日に日に旗を増してゐる一軍があつた。
建安十八年の秋八月である。この蒙古軍の大将は、さきに曹操に破られて、どこへか落ちて行つた馬騰将軍の子馬超だつた。
「父の仇(あだ)、曹操を亡(なく)さぬうちは」
と、馬超はあれ以来、蒙古族の部落にふかくかくれて、臥薪嘗胆、今日の再興に励んできたのであつた。
「何度でも再起する。曹操の首を見るまでは、仆(たふ)るゝもやまじ」
とする意気があるので、征(ゆ)くところ草を薙(な)ぐやうに、敵を風靡し、この軍団は、強大になつた。
ところが、こゝに冀県(キケン)の城一つだけが、よく支(さゝ)へて、容易に抜けない。
城の大将は韋康(ヰカウ)といふ者だつた。韋康は、長安の夏侯淵へ使をとばし、その援軍を待つてゐたが、
「中央の曹丞相のおゆるしを待たずには、兵をうごかし難い」
といふ夏侯淵の返書に、韋康は落胆して、
「それでは到底、この小勢でこの城は保ち難い。見ごろしに見てゐる味方を恃(たの)むよりは」
と、つひに降伏を思つた。
同僚に参軍の楊阜(ヤウフ)といふ将校がある。楊阜は反対して、極力諫めた。けれど韋康はつひに門をひらいて、寄手の馬超へ膝を屈してしまつた。
「よしつ」
馬超は、降(カウ)を容れて、城中へなだれこむとともに、韋康以下、その一類四十餘人を搦(から)め捕つて、珠数(ジユズ)つなぎにその首を刎ねて、
「この時になつて、降伏するなどといふ人間は、義において缺けるし、味方に加へても、どうせ使ひものにはならんやつ等だ」
と、悔(くい)も惜(をし)みもしなかつた。
侍臣が、図に乗つて云つた。
「楊阜はお斬(きり)にならないのですか。彼は韋康を諫めて、降参に反対した曲者(くせもの)ですが」
「それが義だ。弓矢の道だ。楊阜は斬らん」
馬超は、却(かへ)つて、楊阜を助けたばかりか、用ひて参軍となし、冀城の守りをあづけた。
楊阜は心のうちに深く期すものがあるので、表面は従つてゐたが、或る時、馬超に告げて、数日の休暇を願つた。
「わたくしの妻は、もう二(ふた)月(つき)も前に、故郷の臨洮(リンテウ)で死にましたが、このたびの戦乱で、まだその葬ひにも行つてをりません。郷土の縁者や朋友のてまへ、一度は行つて来なければ悪いのですが」
馬超は即座に、
「よし/\。行つて来い」
楊阜は、帰郷した。しかし目的は、歴城(レキジヤウ)の叔母を訪ねることにあつた。この叔母は、近国までも、
「貞賢の名婦」
と、聞えてゐるひとだつた。
「——面目もありませぬ」叔母なる人に会ふと、楊阜は床に伏して拝哭(ハイコク)した。
「残念です。いま私は、甘んじて敵に飼はれてゐます。けれど心まで馬超にゆるしてはゐません。今日、これへ来たのは、ほかに心外なことがあるからでした」
「楊阜、なぜそんなに女々(めゝ)しく哭くのかえ。人間は最後に真(シン)をあらはせばいゝのです。生きてゐるうちの毀誉褒貶(キヨホウヘン)など心におかけでない」
「有難うぞんじます。——が、私が哭いたのは、自分の辱(はぢ)を〔めそ/\〕したわけではありません。あなたの息子たる者の為に、憤慨にたへないのです」
「おや。どうしてだえ?」
「この歴城にありながら、乱賊馬超の蹂躙(ジウリン)にまかせ、一州の士大夫こと/゛\く辱(はぢ)をうけてゐる今日をよそに、何を安閑としてゐるのでせう。あの若さで。……私はそれを憤りに参つたのです。あれでも貞賢な叔母上の息子かと疑つて」
「……たれか居ませんか。姜叙(ケウジヨ)をお呼び。姜叙を」
彼女が、侍女の部屋へ、かう告げると、一方の帳(とばり)を払つて、
「母上。姜叙はこれにをります。お起(た)ちには及びません」
と、ひとりの青年が入つて来た。これなん歴城の撫夷将軍(ブヰシヤウグン)姜叙だつた。
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