吉川英治『三国志(新聞連載版)』(844)金雁橋(きんがんけう)(五)
昭和17年(1942)6月25日(木)付掲載(6月24日(水)配達)
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雒城の市街は、平静に回(かへ)つた。避難した民も城下へ続々帰つて来て、
「やれやれ、ありがたいお布(ふ)令(れ)が出てゐる」
と、高札を囲んで、新しい政道を謳歌した。
孔明は、微行して、一巡城下の空気を視察してもどると、
「御威徳はよく下まで行渡つたやうです。この上は、成都の攻略あるのみですが、功を急いで、足もとを浮かしてはなりません。まづ雒城を中心として、附近の州郡にある敵性を馴(な)づけ、悠々、成都に迫るもおそくないでせう」
と、玄徳へ云つた。
「いかにも」と、玄徳も同じ気もちであつたとみえ、すなはち隊を分つて、各地方へ宣撫に赴かせた。
すなはち、厳顔、卓陽(タクヤウ)(ママ)には張飛をつけて、巴西から徳陽(トクヤウ)地方へ。
また張翼、呉懿には、趙雲を添へて、定江(テイコウ)から犍為(ケンイ)地方へ遣(や)つた。
それらの諸隊が、地方宣撫の功をあげてゐる間に、孔明は、降参の一将を招いて、成都への攻進を工夫してゐた。
「この雒城から成都までのあひだに、どういふ要害があるかね」
降参の将がいふ。
「まづ、要害といつては、綿竹関(メンチククワン)が第一の所でせう。そのほかは、往来を検(あらた)める関所の程度で、取るに足りません」
そこへ、法正が来た。法正も早くから内応して、玄徳の帷幕(ヰバク)に参じてゐる者なので、蜀の事情には精通してゐる。
「いづれ後には、成都の人民は御政下につくものです。その民を驚かし、苛烈な戦禍に怯(おび)えさせることは好ましくありません。まづ、四方に仁政を示し、徐々恩徳をもつて、民心を得ることを先とすべきでせう。一方それがしから書簡をもつて、よく成都の劉璋を説きます。劉璋も、民の離れるのを覚(さと)れば、自然に来て降るにちがひありません」
「貴下の言は大いによい」
孔明は法正の考へを、非常に賞揚し、その方針による[こと]にきめた。
一方、成都のうちは、いまにも玄徳が攻めて来るかと、人心は動揺してやまず、府城の内でも恟々(けふ/\)と対策に沸騰してゐた。
太守劉璋を中心に、
「いかに、防ぐか」
の問題が、けふも軍議され、その席上で従事(ジウジ)鄭度(テイド)は、熱辯をふるつて演説した。
「国家の急なるときは、自然、防禦の力も数倍してくる。官民一致難に当るの決意をもてば、長途遠来の荊州軍など何の怖れるほどのことがあらう。いかにこゝ迄(まで)は、彼の侵略が功を奏して来たにしても、占領下の蜀の民は、まだ心から玄徳に服してゐるのではない。今、巴西地方から総(すべ)ての農民を追つて、悉(こと/゛\)く、涪水以西の地方へ移してしまひ、それらの部落々々には鶏(にはとり)一羽のこすことなく、米穀は焼(やき)すて、田畑は刈り、水には毒を投じ、以て彼等がこれに何を求むるも、一(イツ)飯(パン)の糧(かて)もないやうにしておけば、おそらく彼等は百日のうちに飢餓困憊をさまよふしか道を知らないであらう。——そして成都、綿竹関の二関をかため、夜となく昼となく、奇策奇襲をもつて、彼を苦しめぬけば、怖(おそ)らく、この冬の到来とともに、玄徳以下の大軍は絶滅を遂げるにちがひないと考へる。いやさう信じる。諸公のお考へ如何あるか」
たれも黙つてゐた。すると、太守劉璋が、
「むかしから、国王は、国をふせいで民を安んずるといふことは聞いてをるが、まだ、民を流離させて敵を防ぐといふことは聞いた[こと]がない。それはすでに敗戦の策だ。おもしろくない」
と、いつもに似げない名言を吐いて、鄭度の策を、否決した。
するとそこへ、法正から正式の書簡が来た。書中には、大勢を説いて、いまのうちに玄徳と講和するの利を辯じ、また、さうして、家名の存続を保つことの賢明なことをすゝめてあつた。
「国を売つて敵へ走つた忘恩の徒が、何の面目あつて、わしにこの醜墨(シウボク)をみづから示すか」
劉璋は怒つて、法正の使を斬つてしまつた。
直(たゞち)に、綿竹関の防禦へ、増軍を決行し、同時に、家臣(カシン)董和(トウクワ)のすゝめをいれて、漢中の張魯へ、急使を派遣した。背に腹は更(か)へられぬと、つひに、危険なる思想的侵略主義の国へ泣訴(キフソ)して、その援助を乞ふといふ苦しまぎれの下策に出たのであつた。
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