吉川英治『三国志(新聞連載版)』(843)金雁橋(きんがんけう)(四)
昭和17年(1942)6月24日(水)付掲載(6月23日(火)配達)
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——なぜならば、孔明の四輪車を囲んでゐる兵は、みな弱さうな老兵であり、そのほかの兵もみなぶよ/\に肥えて、見るからに脆弱な士卒ばかりだつたからである。
「いやはや、目前に見る孔明と、かねて耳に聞いてゐた孔明とは、大きなちがひである。用兵神変、孫子以来の人だなどと、取沙汰されてをるが、あの陣容とあの兵気は何事か。芥(あくた)の山を踏むより易いぞ、蹴ちらせ、あの塵芥(ちりあくた)を」
張任の一令に、なほ背後にのこつてゐた数千の兵は、どつと喚(をめ)きかゝつて行つた。
四輪車は逃げだした。
右往左往のていで。
「車上の片輪者待て」
手づかみにして、生捕ることも易しと、張任は馬を打つてとびこみ、雑兵には目もくれず、あはや車蓋(シヤガイ)のうへから巨腕をのばさうとしかけた。
「捕つたつ」
それは足もとの声だつた。何事ぞ、いきなり下から馬の脚を担いで引つくり転(かへ)した猛卒がゐる。
づでんと、見事な落馬だつた。たちまち、又ひとりが跳びかゝる。これも雑兵にしては愕(おどろ)くべき怪力の持主だつた。
それもそのはず、この二人は、雑兵の中にかくれてゐた魏延と張飛だつた。
破壊したと見せた金雁橋も、実は完全破壊はしてゐなかつた。張任があきらめて、上流の支川(シセン)へ避け、浅瀬を渉(わた)つて城のはうへ迂回したと見るや、芦(あし)茅(かや)の中にゐた全軍は、四輪車をつゝんで対岸へ越え、こゝに先廻りして待つてゐたものだ。
山地へ谷間へ逃げこんだ蜀兵もあらまし討たれるか降伏した。
その中には、つい前日成都から援軍に来たばかりの卓膺(タクヨウ)といふ大将なども交(まじ)つてゐた。
張飛、黄忠、魏延などの諸隊も、各々、功をあげて、こゝに圧縮して来た。開いた花の蕾(つぼ)むやうに、総勢一軍となつた後(のち)の陣容行軍はいかにも鮮(あざや)かだつた。
「あゝ、蜀の革(あらた)まる日は来た」
捕虜として檻送(カンソウ)されてゆく途中、張任は天を仰いで長嘆してゐた。涪城について後、玄徳が、
「蜀の諸将はみな降つた。貴公ひとり降伏せぬ法もなからう」
といふと張任は、
「不肖ながら、自ら蜀の忠臣を以て任ずるものである。豈(あに)、二君にまみえよう」
と、昂然と拒んだ。
玄徳はその人物を惜(をし)んで、いろいろ説いたが、どうしても肯(き)かない。たゞ、声をはげまして、
「疾(と)く首を打て」
と、いふのみである。
孔明は見るに見かねて、
「餘りに醇(くど)く強ひるは、真の忠臣を遇する礼でありません。大慈悲の心を以て疾(と)く首を刎(は)ね、その忠節を完うさせておやりなさい」
と、玄徳にすゝめた。
すなはち、張任の首を斬り、その屍を収めて、金雁橋のかたはらに、一基の忠魂碑をたてゝやつた。鴻雁(コウガン)群れて、暮夜(ぼや)、碑をめぐつて啼いた。
かくて雒城は、本格的な包囲の中に置かれた。
降参の大将、呉懿、厳顔の輩(ともがら)が、陣前に出て、城中の者へ説いた。
「無益な籠城は、いたづらに城内の民を苦しめるばかりであらう。我等すら降(くだ)つたものを、汝らの手で如何とする気か。犬死すな」
すると、矢倉の上に、残る一将の劉潰(ママ)があらはれて、
「蜀の恩顧をわすれた人間どもが何をいふか」
と、罵つた。
途端に彼は、矢倉の窓から下へ蹴落されてゐた。何者かゞ後(うしろ)から弱腰を突ゐたものとみえる。同時に、城門は内から開いた。
忽ち、城頭に、玄徳の旗がひるがへつた。城中の者、殆(ほとん)ど七割まで、降伏した。
劉璋の嫡子劉循は、この急変におどろいて、北門の一方からわづかな兵と共に、取る物もとりあへず、逃げ出してゐた。一目散、成都をさして。
「劉潰(ママ)を矢倉から蹴落したものはたれか」
占領後、玄徳がたゞすと、
「——武陽の人張翼(チヤウヨク)、字(あざな)は伯恭(ハクキヨウ)といふものです」
と、侍側から申達(シンタツ)した。
すなはち謁(エツ)を与へて、玄徳は、張翼を重く賞した。
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