吉川英治『三国志(新聞連載版)』(842)金雁橋(きんがんけう)(三)
昭和17年(1942)6月23日(火)付掲載(6月22日(月)配達)
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長江から峡水(ケフスヰ)に入り、舟行千里を溯(さかのぼ)つて、孔明の軍は、漸く、涪水のほとりへ着いたのであつた。
敵の雑兵を蹴ちらして後、趙雲が、さう語ると、
「では、軍師には、もう涪城へ入つたのか」
と訊ね、然りと聞くや、
「急がう」
と、急に連れ立つて、涪城へ帰つた。
趙雲は、入城の手土産に、途中で生捕つた蜀の呉懿をひつさげてゐた。
玄徳がやさしく、
「予に従はないか」
といふと、呉懿は、彼の凡(たゞ)ならぬ人品を仰いで、心から降参した。
孔明も、そこに来てゐた。この降将に上賓の礼をあたへて、
「雒城のうちの兵力は何程か。劉璋の嫡子劉循を扶(たす)けてをるといふ張任とはどんな人物か」
などと質問した。
呉懿はいふ。
「劉潰(ママ)はともかく、張任は智謀機略、衆をこえてゐます。まづ蜀中の名将でせう。容易に、雒城は抜けますまい」
「ではまづ、その張任を生捕つてから、雒城を攻めるのが順序ですな」
孔明が、座談的に、まるで卓上の椀(ワン)でも取るやうなことを云つたので、呉懿は
(この人、大言癖(タイゲンヘキ)があるのか、それとも気が変なのか)
と、あやしむやうな眼でその面を見まもつた。
あくる日、呉懿を案内に、孔明は附近の地勢を視察にあるいた。
帰つて来ると、魏延、黄忠をよんで
「金雁橋の畔(ほとり)五、六里のあひだは、芦(あし)や葭(よし)がしげつてゐるから、兵を伏せるによい。——戦の日、魏延は鉄鎗(テツサウ)部隊千人をあの左にかくして、敵がかゝつたら一斉に突き落せ。また黄忠は右にひそみ、総勢すべてに薙刀(なぎなた)を持たせて、たゞ馬の足と人の足を薙ぎつけるがいゝ。張任は不利と見るとき、かならず東方の山地へ向つて逃げるであらう」
と、さながら盤の〔こま〕でもうごかすやうに云つて、更に、張飛と趙雲へも、べつに策をさづけた。
雒城の前に、金鼓(キンコ)が鳴つた。城兵への挑戦である。
望楼から兵機をながめてゐた張任は、寄手の後方に聯絡がないのを見て
「孔明兵法に暗し」
と思つた。
能(あた)ふかぎり手近にひきよせておいて、大殲滅を計つたのである。寄手はひたと、濠へ近づき、城壁へ〔たかり〕だした。
「よしつ。出ろ」
八門をひらいて、城外へ出る。同時に、南北の山すそに埋伏しておいた城兵も、鵬翼(ホウヨク)を作つて、寄手を大きく抱へてきた。
潰乱、惨滅、玄徳軍は討たれ/\後へ退(ひ)く。
「時は、今ぞ」
張任は、つひに、陣前へあらはれた。荊州(ケイシウ)外(グワイ)、兵を根絶する日、このときを措いて他日なしと、みづから指揮し、みづから戦ひ、金雁橋をこえること二里まで奮迅して来た。
「しまつた」
そのとき振向くと、うしろに敵の一団が見える。しかも金雁橋は滅茶滅茶に破壊されてゐる。
「油断すな。敵の趙子龍がうしろにゐるぞ」
あわてゝ回(かへ)らうとすると、左右の芦荻(ロテキ)のしげりから、槍の穂が雨と突いてくる。なだれ打つて、避(さけ)合はうとすれば、又一方から薙刀の群(むれ)が、馬の脛を払ひ、人の足を斷(き)る。
「残念。南へ退け」
しかし、そこもすでに荊州の兵が占めてゐた。
ぜひなく、涪水の支流に沿つて、東方の山地へ逃げた。
浅瀬をこえて漸く対岸の広野へ渉(わた)る。——ところが、そこも怪しげなる一陣の兵がまん/\と旗を立てゝ一輛の四輪車を護つてゐた。
「や。あの車上に坐し、羽扇(ウセン)をもつて、わしを招いてゐるのは誰(たれ)だ?」
張任が、部下へきくと、あれこそ新たに玄徳の陣に加はつたと聞く軍師の孔明でせうと、誰(たれ)かうしろで答へた。
「あはゝゝ。あれが孔明か」
張任は肩をゆすつて笑つた。
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