吉川英治『三国志(新聞連載版)』(841)金雁橋(きんがんけう)(二)
昭和17年(1942)6月21日(日)付掲載(6月20日(土)配達)
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「名ある敵の大将とみえるぞ。生捕れつ」
はや、殺到した軍馬の中からさういふ声が、玄徳の耳にも聞えた。
すると、聞き覚えのある声で、
「待て/\。手荒にするな」
と、将士を制しながら、玄徳のそばへ馬乗り寄せて来た者がある。見れば、何事ぞ、それは張飛ではないか。
「おうつ、そちは」
「やあ、皇叔にておはすか」
張飛は馬を飛び降りた。そして玄徳の手をとつて、この奇遇に涙した。
蜀兵は山のふもとまで迫つてゐる。事態は急なり、仔細のお物語はあとにせんと、張飛は忽ち全軍を配備し、蜀兵を反撃してさんざんに追ひ討ちした。
蜀将張任は、ふしぎな新手(あらて)が忽然とあらはれて、精勇(セイユウ)潑剌(ハツラツ)、当るべくもない勢を以て城下まで追つて来たので、
「濠橋(ほりばし)を引け、城門を閉ぢよ」
と、全軍を収容して、見事に鳴(なり)をしづめてしまつた。後(のち)に、人々は云つた。
(あの日の敗戦には、当然、劉皇叔もすでにお命はないはずであつたのに、巴郡を越えて、山又山を伝ひ、厳顔を案内として雒城へさして来た張将軍の援軍と日を約したやうに出会うて、九死一生の危難を救はれ給ふなどといふことはたゞの奇蹟や奇遇ではない。まつたく、後(のち)に天子に成られるほどな洪福を、生れながら身に持つてをられたからだらう)——と。
ともかく玄徳は、無事、涪城にもどつて、張飛から厳顔の功労を聞くと、金鎖(キンサ)の甲(よろひ)を脱いで、
「老将軍。これは当座の寸賞です。あなたのお力がなければ、到底、この義弟もかく早く、途中三十餘ケ城の要害を踏破して来ることはできなかつたでせう」
と、なゝめならず歓んだ。
事実、厳顔が説いて、途中三十餘ケ城を無血招降してきた為に、張飛の兵力は、これへ来るまでにその新しい味方を加へて数倍になつてゐた。
涪城はにはかに優勢になつた。それを計らずに、それから数日の後、雒城を出てこゝへ強襲して来た蜀の呉蘭と雷同の二将軍は、その日の一戦に、張飛、黄忠、魏延などの策した巧妙なる捕捉作戦に〔まんま〕と陥つて、ふたりとも捕虜となり、つひに玄徳のまへで降伏をちかふといふやうな情勢に逆転して来た。
雒城の内では、
「腑(フ)甲(ガ)斐(ヒ)なき二将軍かな」
と、同僚の呉懿(ごい)、劉璝たちが歯ぎしり嚙んで、
「しかず、この上は、のるかそるかの一戦をこゝろみ、一方、成都に急を告げて、さらに大軍の増派を仰がう」
と、いきりぬいた。
名将張任は、沈痛に云つた。
「それもよいが、まづ、かうしてみては」
筆をとつて作戦図を書きながら、何事かさゝやいた。
翌日、張任は、一軍の先に馬を飛ばして、城門から殺出した。張飛が見かけて、
「張任とは汝やうな」
丈八の大矛(おほほこ)をふるひ、初見参と呶(ど)鳴(な)つてかゝつた。戦ふこと十数合、
「あなや。あなや」
叫びながら張任は逃げ奔(はし)る。
城北は、山すそから谷へ、また涪水の岸へもつゞき、地形はひどく複雑である。張飛はいつか張任を見失ひ、味方の小勢と共に遠方(をち)此方(こち)馳けあるいてゐたが、そのうちに四(シ)山(ザン)旗と化し、四(シ)谷(コク)鼓(つゞみ)を鳴らし、
「あの虎髯を生捕れ」
と、蜀兵の重囲は張飛の部下をみなごろしにしてしまつた。ひとり辛くも、張飛は血の中を奔つて涪水の方へ逃げのびた。——卑怯卑怯と罵りながら追つてゐた蜀将の呉懿は、そのとき一方の堤をこえて躍り馳けて来た大将に、横合から槍をつけられ、戦ひ数合のうちに得物を奪(と)られて生捕られてしまつた。
「おういつ、張飛。おれだ、おれだ。引つ返して、共に雑兵(ザツヘイ)を蹴ちらしてしまへ」
その大将の声に、味方の誰(たれ)かと怪しみながら戻つてみると、それは荊州を共に立つて、途中、孔明とひとつになつて別れた常山の子龍趙雲であつた。
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