吉川英治『三国志(新聞連載版)』(840)金雁橋(きんがんけう)(一)
昭和17年(1942)6月20日(土)付掲載(6月19日(金)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 草を刈る(二)
***************************************
孔明が荊州を立つときに出した七月十日附の返簡の飛脚は、やがて玄徳の手にとゞいた。
「おう、水陸二手にわかれ、即刻、蜀へ急ぐべしとある。——待ち久しや、孔明、張飛のこゝにいたるは何日(いつ)」
涪城に籠つて、玄徳は、行く雲にも、啼き渡る鳥にも、空ばかり仰いでゐた。
「皇叔。この頃、寄手のていを窺つてみますと、蜀兵も、この涪城を出ぬお味方に攻めあぐね、みな長陣に倦み飽いて、惰気満々の〔てい〕たらくです。——これへ孔明の援軍が来れば、忽ち敵も士気をふるひ陣容を正しませう。むなしく援軍の到着を待つのみでなく、彼の虚と紊(みだ)れを衝いて、一勝を制しておくことは、大いに成都の入城を早めることにならうと存じますが」
これは、或る日、黄忠が玄徳に呈した言であつた。
思慮ふかい玄徳も、
「一理ある」
と、意をうごかされた。
偵察(ものみ)の者も、黄忠のことばを裏書してゐる。果断をとつて、つひに涪城の軍は、百日の籠居を破つて出た。
もちろん、夜陰奇襲したのである。案のぢやう野陣の寄手はさんざんに混乱して逃げくづれた。面白いほどな大快勝だ。途中、莫大な兵糧や兵器を鹵獲(ロクワク)しつゝ、つひに雒城の下まで追ひつめて行つた。
潰走した蜀兵はみな城中にかくれて、ひたと四門をとぢてしまつた。蜀の名将張任の命はよく行はれてゐるらしい。
この城の南は二条の山道。北は涪水の大江に接してゐる。玄徳はみづから西門を攻めた。黄忠、魏延の二軍は、東の門へ攻めかゝる。
けれど、陥ちない。〔びく〕ともしない。まる四日間といふもの、声も嗄(か)れ、四肢も離れ/゛\になるばかり、東西両門へ力攻したが、さしたる損害も与へ得なかつた。
蜀の張任は、
「もうよからう」
と、呉蘭、雷同の二将軍へ云つた。二将軍もよからうと云ふ。
すなはちこゝ迄(まで)は、本心の戦をなしてゐたのではない。要するに誘引の計を以てひき出し、更に、玄徳軍の疲労困憊を待つてゐたのである。
南山の間道から、蜀兵はぞくぞく山地に入り、遠く野へ降りて迂回してゐた。また、北門は江へ舟を出して、夜中に対岸へあがり、これも、玄徳の退路を断つべく、枚(マイ)をふくんで待機する。
「城内の守りは百姓だけでよい。一部の将士のほかは、みな城を出て、玄徳の軍をこの際徹底的に殲滅せよ」
張任は、かう勇断を下して、やがて一発の烽火(のろし)をあひづに、銅鑼(ドラ)、鼓(つゞみ)の震動、喊声(カンセイ)の潮、一時に天地をうごかして、城門をひらゐた。
時刻は黄昏であつた。こゝ数日のつかれに、玄徳の軍馬は鳴をひそめ、今しも夕方の炊煙をあげてゐたところ。
当然、間に合(あは)ない。
あたかも黄河の決潰に、人馬が濁流にながされるのを見るやうだつた。まつたく一支へもせず、八方へ逃げなだれた。
「それ撃て」
「すゝめ」
と、その先には、山と江から迂回してゐた蜀兵が、手に唾して、陣を展開してゐた。呉蘭、雷同の二将軍とその旗本は、殆(ほとん)ど、血に飽くばかり勇をふるつた。
「あな、あはれ。こんな事が、いつたいなぜ昨日にも覚(さと)れなかつたらう」
玄徳は、悲痛な顔を、馬のたてがみに沈めながら、魂も身に添はず、無我夢中で逃げてゐた。
見まはせば、一騎とて自分のそばには居なかつた。
啾々(シウ/\)、秋の風に、星が白い。——幸いにも、夜だつた。
彼は、鞭打つて、疲れた馬を、からくも山(やま)路(ぢ)へ追ひあげた。
だが、うしろから蜀兵の声がいつまでも追つてくる。
谷や峰にも、蜀兵の声がする。
「天もわれを見離したか」
玄徳は哭(な)いた。
しかし、忽ち、山上から駆下つて来る一軍のあるを知つて、きつと涙をはらひ、静かに最期の心支度をとゝのへた。
***************************************
次回 → 金雁橋(二)(2026年6月19日(金)18時配信)

