吉川英治『三国志(新聞連載版)』(836)破軍星(一)
昭和17年(1942)6月16日(火)付掲載(6月15日(月)配達)
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七夕(たなばた)の宵だつた。
城内の街々は、紅燈青燈に彩(いろど)られてゐる。
荊州の城中でも、毎年の例なので、孔明は、主君玄徳の留守ながら、祭を営み、酒宴をまうけて、諸大将をなぐさめてゐた。
すると、夜も更けて来た頃、一つの大きな星が、妖しい光芒を曳いて、西の空へ飛んだと思ふと、白い光煙をのこして、ぱつと砕けるごとく、大地へ吸ひこまれた。
「あゝ、破軍星」
孔明は、杯を落して、哀しいかなと、ふいに叫んだ。
満座の人々は、酔をさまして、
「軍師、なにをそのやうに、悲しまれるのですか」
と、皆杯を下にした。
「諸公。今日からは皆、かならず遠くへ出給ふな。凶報かならず数日のうちに到らん」
と、豫言した。
果して、それから七日の後、玄徳の使として、関羽の養子関平が征地から帰つて来た。
「軍師龐統は戦死し、我君以下は、涪城に籠つて、四面皆敵、いまは進退きはまつてをられます」
さらに、玄徳の書簡を出した。
孔明はそれを読んで泣いた。そしてすぐ主君の救援に赴くべく準備を令したが、案ぜられるのは、自分が出たあとの荊州の守りである。
「関羽、貴公と関平とで、あとの留守を固め、東は呉に備へ、北は曹操を防ぎ、君公の御出征中を、寸地もゆづらず守つてゐてくれまいか。この大任は、蜀に入つて戦ふ以上の大役である。貴公に嘱するほか他に人はない。むかし、桃園の義を、こゝに思ひ、この難役に当つてくれい」
孔明から説かれて、関羽は、
「桃園の義を仰せられては一言の否(いな)みもありません。安んじて、蜀へお急ぎください。あとはひきうけました」
「では」
と、孔明は、玄徳から預けられてゐた荊州総大将の印綬を彼に渡した。
関羽は、拝受して、
「大丈夫、信をうけて、暫(しば)しなりと、一国の大事を司(つかさ)どるうへは、たとひ死んでも、惜(をし)みはない」
と、感激して云つた。
孔明はよろこばない顔をした。関羽に、死を軽んずるやうな口(くち)吻(ぶり)があつたからである。一国を司どる者が、そのやうに一死を軽んずるようでは留守が案ぜられる。で彼は、関羽に、試問を呈してみた。
「貴公のことだ。万に一も過(あや)まりはあるまいが、もし呉の孫権と、北の曹操とが、同時にこの荊州を攻めて来たときはどう防ぐか」
「もちろん兵を二分して、二手にわかれ、一を撃破し、また一を討ちます」
「危(あやふ)い、危い。それがしが、八字を以て、貴公に教へておく」
「八字の兵法とは」
「——北ハ曹操ヲ拒(ふせ)ギ、東ハ孫権ト和ス。——お忘れあるな」
「なるほど。……肺腑に銘じて忘れぬやうにいたします」
「たのむ」
すなはち印綬の授受はすんだ。
関羽を輔佐する者としては文官に、伊籍、糜竺、向郎(カウラウ)、馬良などをとゞめ、武将には、関平、周倉、廖化、糜芳などをあとに残して行つた。
そして、孔明のひきゐて行つた荊州の精兵といへば、わづか一万に足らなかつた。
張飛をその大将とし、峡水(ケウスヰ)の水路と、嶮山の陸路との、二(ふた)手(て)になつてすゝんだ。
「まづ張飛は、巴郡(ハグン)をとほり、雒城の西に出でよ。自分は趙雲を先手とし、船路(ふなぢ)をとつて、やがて雒城の前にいたらむ」
と、告げた。
二(ニ)道(ダウ)に軍を分つて立つ日、野宴を張つて、
「どつちが先に雒城へ着くか、先陣を競はう。いづれも、健勝に」
と、杯(さかづき)を挙げて、おたがひの前途を祝しあつた。
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次回 → 破軍星(二)(2026年6月16日(火)18時配信)

