吉川英治『三国志(新聞連載版)』(835)落鳳坡(らくほうは)(三)
昭和17年(1942)6月14日(日)付掲載(6月13日(土)配達)
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蜀の張任は、白馬の主(ぬし)を、玄徳とばかり思ひこんでゐたので、絶壁の上から遠く龐統の死を見とゞけると、
「敵の総帥は射止めたぞ。すでに首将を失つた荊州の残兵共一兵ものこさず蹴ちらして谷を埋(うづ)めよ」
と、歓喜して号令した。
山もゆるがす勝鬨(かちどき)をあげながら蜀兵はうろたへ惑ふ龐統軍へ喚(をめ)きかかつた。何かはたまるべき、荊州の兵は、釜(フ)中(チウ)の魚みたいにたゞ逃げ争つて蜀兵の殺戮にたいし、手向ふ意志も失つてゐた。山を攀(よ)ぢ、谷へのぞんで逃げ出した兵も、猿(ましら)のやうに敏捷な蜀兵に追はれ、その戈(ほこ)や槍から遁れることはできなかつた。
このとき、魏延は龐統の中軍に先んじて、すでに遙(はるか)な前方へ進んでゐたが、
「後続部隊に戦闘が起(おこ)つた——」
といふ伝令を受取つて、
「さては、先鋒と主隊との連絡を断たうとする敵の作戦だらう」
ぐらゐに考へて、進路を後へ引つ返して来た。
ところが、途中、聳(そび)え立つ岩山の横を〔くり〕抜いた洞門のてまへ迄(まで)来ると、張任の一手が上から岩石や矢をいちどに注ぎ落した。
「だめだ。伏兵がゐる」
「人馬の死骸と岩石のために、洞門の口も塞がつてしまひ、所詮、あとへ戻ることもできません」
前隊の者が押返して来てのことばに、魏延もいまは進退きはまつてしまつた。
「よし、この上は、単独で雒城まで押通り、南路から越えてゆかれた皇叔の本軍と連絡をとらう」
ふたゝび考へ直すと、魏延は馬を迴らして、更に豫定の前進をつづけた。
漸く、雒山の背をこえ、西方の麓をのぞんで降りてゆくと、真下に雒城の西(にし)曲輪(ぐるわ)が見え、蛾眉門(ガビモン)、斜月門(シヤゲツモン)、鉄鬼門、蕀冠門(ラクワンモン)などが、さらに次の山をうしろにして鋭い反(そり)屋根の線を宙天にならべてゐた。
当然、それらの門々は、敵を見るや、警鼓(ケイコ)戦鉦(センセウ)をうち鳴らし、煙のごとく軍兵を吐き出して、
「みなごろしにせよ」
と、魏延をかこんだ。
指揮するものは呉蘭、雷同、音に聞えた蜀の大将である。中軍をあとに残して、頭部だけで敵地に入つた魏延はもとより討死を覚悟した。唯(たゞ)、
「死出のみやげ」
と、当るにまかせて血闘奮力の限りを尽した。
ときに突然、背面の山から、又又、金鼓を鳴らし、喊声(カンセイ)をあげて、この大血河へ、更に、剣槍の怒濤を加へて来たものがある。
「うれしや、劉皇叔か」
と思へば、何ぞはからん、張任の軍隊だつた。
「全滅、ぜひなし」
魏延も、いまは観念した。
ところへ、南路の山道から、
「黄忠これに来る。魏延、安んぜよ」
と呼ばはりながら、玄徳の先鋒が駈けつけて来た。玄徳の中軍も来た。為に、双方の戦力は伯仲して、いよいよ激戦の相をあらはしたが、玄徳は、龐統が見えないのを怪(あやし)んで、
「退け。涪城へ」
と、帰りには、街道の関門を突破して、引く潮のやうにひきあげた。
関平、劉封などの留守隊は、涪城を出て、玄徳を迎へ入れた。時早くも、
「軍師龐統は、山中の落鳳坡とよぶ所にて、無惨な討死をとげた」
といふ事実が、逃げ返つて来た残兵の口から伝へられた。
玄徳の悲嘆はいふ迄(まで)もない。
「虫の知らせであつたか」
と、後(のち)になつては、かず/\の兆(し)らせを思ひ当るのだ。
夕星(ゆうづゝ)白き下、祭の壇をきづいて、亡き龐統の魂魄(コンパク)を招き、遠征の将士みなぬかづいて袖をぬらした。
魏延、劉璝(ママ)などの若武者は、
「雒城をふみ潰さずには」
と、雪辱に逸(はや)り立つたが、玄徳は愁(うれひ)を共に城門を閉ぢて、
「決して出るな」
と、たゞ堅きを守つた。
そして関平を荊州へ急がせ、一刻もはやく蜀に来れ、と孔明にあてた書簡を持たせてやつた。
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