吉川英治『三国志(新聞連載版)』(833)落鳳坡(らくほうは)(一)
昭和17年(1942)6月12日(金)付掲載(6月11日(木)配達)
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「あら、なつかしの文字」
玄徳は、孔明の書簡をひらくと、まづその墨の香、文字の姿に、眸を吸はれてから、読(よみ)入つた。
龐統はその側にゐた。
側に人のゐるのも忘れて、玄徳は繰返し繰返し、孔明の書簡に心を奪(と)られてゐる。
その真情の濃さ。遠く離れてゐるせゐもあらうが、何たる君臣の仲の美しさか。
「……」
龐統は胸のうちで溜息をおぼえた。ふしぎな溜息ではある。彼自身でさへ、自分のうちにこんな性格があつたらうかと怪しまれるやうな気持が抑へきれなかつた。それは嫉妬に似た感情だつた。
「先生。孔明は留守にあつても絶えず予の身上(みのうへ)を案じてゐるらしい。荊州は至極無事とは書いてあるが、近頃、天文を按じてみると、西方になほ恒星(カウセイ)耀(かゞや)き、客星の光芒弱く、今年はなほ征軍に利あらず、大将の身には凶事の兆(きざし)すらあり、くれ/゛\身命を慎み給へと認(したゝ)めてある」
「ほ。さうですかな」
龐統は気のない返辞をした。
「——で、つら/\思ふに、大事は急を思つてはならない。ひとまづ使の馬良は先に返し、予も荊州へ一度立還つて、孔明と会つた上よく協議してみたいと思ふ。それが万全と思ふがどうだらう」
「さあ……?」
龐統はしばらく答へない。
彼は彼自身と胸のなかで闘つてゐた。抑へやうもなく心の底にむら/\起(おこ)つてくるふしぎな嫉(ねた)み心を自ら辱(はじ)て、打払はうと努めてゐたが、結果は、われにもなくその理性と反対なことを口に出してゐた。
「これは意外な御意。命は天にあり、豈(あに)、人にありませうや。いま征馬をこゝ迄(まで)すゝめながら、孔明の一片の書簡にお心を惑はされ給ふなどとは、何たることですか」
こゝまで云ふと、龐統はもう真(ま)つ向(カウ)に孔明の説に反対を唱へる者になつてゐた。おそらく孔明は蜀に於て、この龐統が大功を納めてしまひさうな形勢をみて、ひそかにそれを〔そね〕んでゐるにちがひない。で、何のかのと、意見を提出して、留守にゐても玄徳の心をつかみ、西蜀征伐の功の一半を逸すまいといふ心があるに極(きま)つてゐる。
龐統は、かう取つてゐた。いつになく彼は舌に粘りをもつて、なほ玄徳へ云つた。
「不肖、それがしも亦(また)、少しは天文を心得てゐます。暦数を考へるに、必ずしも今年は皇叔にとつて大吉ではありませんが、さりとて悪年では決してない。また剛星(ガウセイ)西方にあることも知つてゐますが、それはやがて皇叔が成都に入るの兆(きざし)です。むしろ速(すみや)かに、兵をおすゝめあれ。いつまで魏延、黄忠を涪水の線に立たせておくは下策です」
励まされて、玄徳は、次の日涪城を発し、前線へ赴いた。
「雒城の要害はまさに蜀第一の嶮。いかにせばこの不落の誇りを破り得ようか」
以前、張松から彼に贈つた西蜀四十一州図を展(ひろ)げて、玄徳はそれと睨みあつてゐた。
法正がまた一本の絵図を携へて来て、
「雒山の北に、一すじの秘密路(かくしみち)があります。それを踏み越えれば、雒城の東門に達すといふことです。——またあの山脈の南にも一(イチ)道(ダウ)の間道があつて、それを進めば同じく雒城の西門に出るといふ。——この絵図と、張松の絵図とを、照し合せてごらん下さい」
仔細に見くらべると、まさにその通りであつた。
玄徳は、信念を得て、
「軍を二つに分ち、統先生には北方の道をすゝむがいい。予は一手をひきゐて南から山を越えてゆき、目ざす雒城で落(おち)会はう」
と、云つた。
龐統は不足な顔した。なぜなら北山の道は広くて越え易いが、南山の道は狭く甚だしく嶮岨であるからだ。
彼の顔いろを見て玄徳はかう云ひ足した。
「ゆうべ、夢に怪神があらはれて、予の右の臂を、鉄の如意(ニヨイ)で打つた。今朝までも痛む気がした。故に、軍師の身が気づかはれるのだ。いつその事、涪城へ回(かへ)つて、御身はあとを守つてをらぬか」
もとより龐統は一笑に附して出発にかゝつた。ところが陣払ひして立つ朝、彼の馬が妙に狂つて、右の前脚を折つた。その為不吉にも彼は落馬の憂目(うきめ)をみた。
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