吉川英治『三国志(新聞連載版)』(830)魏延と黄忠(四)
昭和17年(1942)6月9日(火)付掲載(6月8日(月)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 魏延と黄忠(三)
***************************************
先に廻つて、こゝを占領してゐたのは、玄徳の命をうけた関平の一軍だつた。
「や、や。いつのまに」
冷苞は帰るに陣もなく、狼狽の極(キヨク)、馬を回(めぐ)らして山間(やまあひ)へ逃げこんだ。
「かゝつたぞ。網の中に」
忽ち、熊手や投げ縄が、八方の叢林(ソウリン)から飛(とび)出して、彼を馬の背から搦(から)め落した。
「大物を捕つたぞ」
こゝに彼を待つて奇功を獲たのは、魏延であつた。魏延の得意なことはいふ迄(まで)もない。
実は、彼としては、軍法を犯してまで黄忠を抜駈けしたものゝ、序戦には大敗を喫し、多くの兵を損じたので、(何か一(ひと)手功(てがら)たてねば味方の者にあはせる顔もないが)
と、独り焦躁してゐたところに敵の一大将を捕虜にしたのであるから、その満足感はなほさら大きかつた。
蜀兵の捕虜は、このほかにも夥(おびたゞ)しく玄徳の後陣へ送られて来た。とまれ第一戦はまづ味方の大勝に帰したわけであるから、玄徳は将士に恩賞を頒(わか)ち、降兵は悉(こと/゛\)くゆるして、それぞれの部隊に配属させた。
ときに、老黄忠は、玄徳の前に出てかう訴へた。
「抜(ぬけ)駈(がけ)は軍法の大禁。魏延はまさに公然それを犯したものです。御処分を下し給はねば軍紀の紊(みだ)れとなりませう」
「魏延を呼べ」
玄徳の使に、魏延は直(たゞち)に、虜将冷苞を自身で曳いて来た。
それを見ると玄徳は、この若い勇将を軍法に処す気になれなかつた。その愛を内に秘めて彼はかう魏延を叱つた。
「聞けばそちは、すでに危いところを、黄忠の矢に救はれたといふではないか。予のまへで黄忠に恩を謝せ」
魏延は、黄忠に向つて、
「貴公の一(イツ)矢(シ)がなければ、鄧賢のために討たれてゐたかも知れない。つゝしんで高恩を謝します」
と、ひざまづいて頓首した。
玄徳はそれを見ながら、もう一言詫びよと云つた。魏延は抜駈のことだと察したので、
「それがし、若輩のため、気のみ逸(はや)つて、時刻や進路を過まり、自ら危地へ陥つたこと、面目もありません。併(しか)しこれもみな一途君恩に応へんためのみ。どうか御寛容ねがひたい」
黄忠はもう何も云へなくなつた。玄徳は老黄忠の年に〔めげな〕き働きを賞して、
「目ざす成都に入城したあかつきには必ず重く賞すであらう」
と、約した。
玄徳はまた捕虜の大将冷苞を説いて、
「君に鞍馬(アンバ)を与へよう。雒城へ帰つて、君の友を説き、城をひらいて無血に予へ渡されい。然る後には、かならず重く用ひ、卿等の一門にも、以前にまさる繁栄を約束するが」
縄を解かれた上、懇(ねんごろ)に陣外へ放されたので、冷苞は大よろこびで雒城へ飛んで行つた。——魏延は見送つて、
「あいつ、きつと、帰つて来ませんぞ」
と、忌々(いま/\)しげに呟いたが、玄徳は、
「帰らなければ、彼が信義を失ふので、予の仁愛の主義に傷はつかない」
と、いつた。
果せるかな、冷苞は帰らない。雒城へ入ると、味方の劉璝や張任に会つて、
「いちどは敵に生捕られたが、番の兵を斬り殺して逃げて来た」
と偽り、序戦は敗れたかたちだが、玄徳の如き、何ものでもない。などゝ敗将の気焰は却(かへ)つて旺盛なものだつた。
「何よりは、もつと兵力を」
と、この三将から成都へ頻々と援軍が求められた。
程なく、劉璋の嫡子(チヤクシ)劉循(リウジユン)、その祖父(ソフ)呉懿(ゴイ)、二万餘騎をひきゐて、雒城へ援けに来た。この軍のうちには、蜀軍の常勝王といはれた呉蘭(ゴラン)将軍、雷同(ライドウ)将軍なども加はつてゐた。
だが総帥は、その年齢からいつても、太守劉璋の舅たる格からいつても当然、呉懿その人であつた。
「いま、涪江の水(みづ)嵩(かさ)は高い。敵の陣地を一(イツ)水(スヰ)に洗ひ流してしまへ」
呉懿はこゝへ着くとかういふ命令を出した。そこで五千の鋤(すき)鍬(くわ)部隊は、夜陰を待つて、涪江の堤防を決潰すべく、待機を命じられた。
***************************************
次回 → 短髪壮士(一)(2026年6月9日(火)18時配信)

