吉川英治『三国志(新聞連載版)』(828)魏延と黄忠(二)
昭和17年(1942)6月6日(土)付掲載(6月5日(金)配達)
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雒県の山脈と、往来の咽喉(のど)を扼(ヤク)してゐる、雒城の要害とは、ちやうど成都と涪城のあひだに在る。
涪城から玄徳が放しておいた斥候(ものみ)の一隊は、倉皇(サウコウ)と立(たち)帰つて来てかう報(し)らせた。
「蜀の四将が、全軍五万を、二手にわけて、一は雒城をかため、一は雒山の連峰をうしろにして、強固な陣地を構築してをります」
玄徳はすぐ諸将に諮つた。
「敵の先陣は、蜀の名将、冷苞、鄧賢の二将と聞く。これを破るものは、成都に入る第一の功名といへよう。誰(たれ)かすゝんでそれを撃破してみせるものはないか」
すると、幕将のうちでもいちばん老(おい)〔ぼれ〕て見える老将黄忠が、身をゆるがして、
「此(この)方(ハウ)にお命じください」
と、云つた。
云ひ終るか終らぬうちに、それとはまるで声からしてちがふ若者が、
「あいや、老黄忠のお年では、ちと敵が強過ぎよう。その先陣は、それがしにお命じ賜はりたい」
と、横からその役を買つて出た。
誰(たれ)かと見れば、魏延である。序戦の勝敗は大局に影響する。何ぞ老将の手を借らんやと、魏延は気を吐いて、切に自身先鋒たらんことを希(ねが)つた。
「これは異(イ)な仰せかな」
と、老黄忠も黙つてゐない。
「御辺が魁(さきがけ)の功名をねがはるゝは御随意だが、この黄忠を無用のごとくいはるゝは聞きずてならん。何故、此方には勤まらぬといはれるか」
詰寄ると、魏延、
「あらためて申す迄(まで)もない。老いては血気弱く、あなたばかりではなく、誰(たれ)にせよ、強敵を破るはまづ難しいといふのが常識であらう」
「お黙りなさい。老骨は必ず若い者に敵せぬといふ定則はない。むしろ御辺のやうに、たゞ若きにのみ恃(たの)む者こそ危いといはねばなるまい」
「お年寄とゆるして程よく答へてをれば口幅つたい広言。然らばいま君前に於て、いづれの志力腕力が秀でゝをるか勝負に及ばん。黄忠どの、起てつ」
「おう、否みはいたさぬ」
と、黄忠も階を降(くだ)り、魏延も堂を下りて、すんでに、若虎老龍が戈(ほこ)をとつて闘はうとする様子に、玄徳は驚いて堂上から一喝に制した。
「ふたりとも控へぬか。こゝに私闘を演じて我軍に何の利があるぞ。敵を前に両名とも大人げない争ひ。断じて、汝等には、わが先鋒の大役は命ぜられぬ」
叱られて、黄忠も魏延も、共に地へひざまづき、面目なげに、俯(うつ)向いてしまつた。
——と、龐統が、玄徳の気色(ケシキ)をとりなして、かくまでに熱望するものを他人に命ぜられては、折角の英気をいたく挫(くじ)きませう。かくなされては如何と、一策を出して、玄徳の許容を求めた。
もとより玄徳も本心から怒(いか)つたのではない。むしろ幕下の大将がかくまで旺盛な戦意を抱(いだ)いてゐることは彼として欣(よろこ)ばしいほどであつたから、
「龐統にまかせるよいやうに裁け」
と、いひつけた。
で、龐統が二人へいふには、
「いま蜀の冷苞、鄧賢の二将は、雒山々脈を負うて左右二翼にわかれて陣取る。御身らも二手にわかれて各々その一方に当れ。いづれでも早く敵陣を粉砕して味方の旗を掲げたものを第一の功名とするであらう」
黄忠、魏延は、勇躍して進軍した。龐統はまた玄徳にいつた。
「あのふたりは必ず途中で味方喧嘩をしますよ。君にも即刻、兵をつれて、彼等の後陣におつゞき下さい」
「涪城の守りは」
「龐統が承ります」
「さらば」
と、玄徳もまた用意して、関羽の養子関平と、劉封の二将をつれ、その日たゞちに雒県へ急いだ。
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