吉川英治『三国志(新聞連載版)』(823)上・中・下(一)
昭和17年(1942)5月31日(日)付掲載(5月30日(土)配達)
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葭萌関は四川と陝西の境にあつて、こゝは今、漢中の張魯軍と、蜀に代つて蜀を守る玄徳の軍とが、対峙してゐた。
攻めるも難。防ぐも難。
両軍は悪戦苦闘のまゝたがひに譲らず、はや幾月かを過してゐた。
「曹操が呉へ攻下つたといふ報らせが来た。濡須の堤をはさんで、魏呉、死闘の大戦を展開中であるといふ。……龐統、いかゞしたらよいか」
玄徳がたづねた。答へる者は、龐統。孔明に代つて従つて来た唯一の軍師である。
「遠い遠い江南の大戦。こゝの戦局には、何も関はりはないでせう」
「いや、大いにある」
「なぜです?」
「もし曹操が勝てば、翻つて、荊州も併(あは)せ呑んでしまふであらうし、また呉の孫権が勝利を得れば、その勢にのつて、進んで荊州をも占領するであらうことは、火をみるよりも明かである。いづれにせよ、わが本国の荊州にとつては、滅亡もまぬかれぬ危機ではないか」
「孔明がをります。荊州の留守について、そんな御心配を征地で抱かれるなどゝ聞いたら、孔明は嘆きませうよ。——自分はまだそんなにも君の御力と成るに足らない者かと」
「さうかな……」
「むしろこの際、その聞えを利用して、蜀の劉璋へ一書をお送り下さい。いま曹軍が南下したので、呉の孫権から、荊州へ救ひを求めに来てゐる。呉と荊州とは、唇歯の関係にあるし、姻戚の義理もある。——依つて駈けつけねばならないが、魏の曹軍に対しては、いかんせむ兵力も兵粮も足らない。精兵三、四万に兵粮十万石を合力されたい。……かう云ひ遣(や)つてごらんなさい」
「ちと、求めるのが、莫大すぎはしないか」
「同宗のよしみと、こんどの事を恩にきせて、ともあれそれくらいな要求をしてみると、劉璋の心底も見当がつきませうし、巧く望みどほりの力を貸してくれば、そのあとで龐統にもいさゝか策がありますから」
「それもよからう」
使者は、成都へ向つて行つた。
途中、涪水関(フスヰクワン)(重慶の東方)にかゝると、その日も、山上の関門から手をかざして、麓の道を監視してゐた番兵が、
「玄徳の部下らしく、小旗を持つた荊州の使者が、今これへかゝつて来ます。通しますか、拒みますか」
と、蜀の二将、揚懐(ママ)と高沛の前に告げた。
山中の退屈まぎれに、二人は碁を囲んでゐたが、玄徳と聞くと、すぐ眼角(めかど)をたてゝ、
「待て待て。滅多に通すな」
と、番兵を戒め、何か、首をよせて、相談してゐた。
成都に赴く使者は、玄徳の書簡を、関門役人に内示した。見せなければ通さん、といふのでぜひなく證拠として示したのである。高沛と揚懐(ママ)は蔭で読んでしまつた。
「お通りなさい」
ゆるされて、書簡も返されたが、大将揚懐(ママ)が兵をつれて、
「成都までご案内申す」
と、従(つ)いて来た。
いまや蜀の内部には、反玄徳気勢が昂(たか)まつてゐた。揚懐(ママ)もそのひとりで、早速、劉璋の前へ出て、かう進言した。
「玄徳から莫大な兵と粮食を借り求めて来たやうですが、決してお貸しになつてはいけません。彼の野望の火へ、わざ/\乾いた柴を積んでやるやうなものでせう」
劉璋は相かはらず煮えきらない顔いろである。恩義もあるし、同宗の誼(よし)みもあるし、などゝ口のなかで繰り返してゐる。それを見て、侍将(ジシヤウ)のひとり劉巴(リウハ)、字(あざな)は子初(シシヨ)といふものが、
「わが君。私情にとらはれて国を亡(なく)し給ふな。彼に粮(かて)を与へ、兵をかすは、虎に翼(ヨク)を添へて、わざとこの国を蹂躙(ジウリン)せよといふやうなものです」
居合せた黄権もまた進み出て、
「揚懐(ママ)、劉巴のことばこそ、真に国を憂ふる忠誠の声とぞんずる。何とぞ、御賢慮をたれ給へ」
と、口を酢(す)くして諫めた。
かう重臣のすべてが反対では劉璋もそれに従はざるを得ない。
しかしたゞ断るのもわるいといふので、戦線には用ひられないやうな老朽の兵ばかり四千人と、穀物一万石、それに廃物にひとしい武具馬具などを車輛に積んで、使者と共に、玄徳へ送りとゞけた。
玄徳はその冷淡に怒つた。
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