吉川英治『三国志(新聞連載版)』(822)日輪(四)
昭和17年(1942)5月30日(土)付掲載(5月29日(金)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 日輪(三)
***************************************
あくる日。
五、六十騎をつれて、彼は陣中を見まはり、何気なく江(コウ)の畔(ほとり)を歩いて来た。
ちやうど真つ赤な夕陽が、江の上流の山に沈みかけてゐたので、曹操はゆうべの夢を憶ひ出して、
「昨夜ふしぎな夢を見たが、吉夢だらうか、凶夢だらうか」
と、左右の将に語つてゐた。
すると、夕陽の光線と、江の波光とが相映じて、眩(まば)ゆいばかりぎらぎら燃えてゐる彼方の赤い靄(もや)の中から、一(イチ)旗(キ)、二旗、三旗、無数の旗が見え初めた。
「や。敵?」
いふまもない。
黄金の盔(かぶと)に、紅の戦袍を着、真つ先に進んできた大将が、鞭をあげて、曹操をさしまねきながら揶揄(ヤユ)して云ふ。
「国を侵す賊は何者だ」
「孫権か。予は、曹操である。王室の順に従はぬ者は討てとの、勅を奉じて下つた天子の軍である」
「あら、笑止」
孫権は、哄笑した。
「天子の尊きは、誰(たれ)も知る。故に、天子の御名を詐(かた)るものは、人ゆるさず、地ゆるさず、天ゆるさず。孫権もまたゆるさぬ。人中第一の悪人曹操、首をさしのべよ」
これを聞くと曹操の気は怒るまいとしても怒らざるを得なかつた。彼は又も、敵の仕掛けた戦に誘はれて戦つた。この日の戦闘も、惨烈をきはめたが、結果は、魏の大敗に帰してしまつた。
「どうも、こんどの遠征は、いつもの丞相らしい冴えがない」
諸将はいぶかつた。
許都を発するとき荀彧が毒を服(の)んで死んだことなどが、何か、丞相の心理に影響してゐるのではあるまいか、などゝ囁(さゝや)く者もゐた。
いづれにせよ、連戦連敗をかさねて、その年の暮てしまつたことは現実だつた。
翌建安十八年、正月となつても、捗々(はか/゛\)しい戦況の展開はなく、二月に入ると、毎日、ひどい大雨がつゞいて、戦争どころでなくなつてしまつた。
人類がこの地上で遭遇した大雨の記録を破つたらうと思はれるほどな雨量だつた。日夜大雨はやまず、陣小屋も馬つなぎも、悉(こと/゛\)く流され、曹操の中軍すら、筏(いかだ)を組んで、遙(はるか)な北方の山上へ移つて行つたやうな有様だつた。
次には当然、食糧難が起つて来た。兵はうらみを含み郷愁を思ふ。
諸将の意見も区々(まち/\)だつた。硬論を主張するものは、陽春の候もやがて近し、死馬を喰つて頑張つても、その時を待つて一戦を決せずんば、遙(はるか)に南下した効(かひ)もないと云ふ。
かういふ状態の中へ、呉侯孫権から一書が来た。文に曰(いは)く。
予モ君モ共ニ漢朝ノ臣タリ、
マタ民ヲ泰(やす)ンズルヲ
以テ徳トシ任トスル武門ノ
棟梁デハナイカ。仁者相争フヲ
嘲(わら)ツテカ天ハ洪々ノ
春水ヲ漲(みなぎ)ラシ、
君ノ帰洛ヲ促シテ居ル。賢慮
セヨ君、再ビ赤壁ノ愚ヲ繰返ス
コトナキヲ。
建安十八年春二月呉侯孫権書。
ふと、書簡の裏を見ると、又、
足下不死(ソツカしなずんば)
孤不得安(われやすきをえずズ)
と、書いてある。
曹操は苦笑して、次の日、
「還(かへ)らう」
あつさりと、引揚げを命令した。
呉軍も、それを見て、みな秣陵の建業(南京)へ帰つた。
孫権はすつかり自信を得て、
「曹操すら恐れて帰つた。いま玄徳は蜀(シヨク)境(さかひ)に動いてゐる。この時を措かず荊州へ進まうではないか」
と、群臣に諮つた。
宿老の張昭は、いつも若い孫権に歯(は)止(どめ)の役割をしてゐたが、このときも次のやうに云つた。
「蜀の劉璋へ、一書をおつかはしあつて、玄徳は呉へ後詰(うしろまき)を頼んで来てゐる。必ずや蜀を横奪する考へにちがひない、とまづ劉璋を疑はせ、また漢中の張魯へも、物資軍需の援助を云ひ遣(や)り、しばらく玄徳を苦(くるし)ませて、後おもむろに荊州を取るのが一番の良策でせう」
***************************************
次回 → 上・中・下(一)(2026年5月30日(土)18時配信)

