吉川英治『三国志(新聞連載版)』(821)日輪(三)
昭和17年(1942)5月29日(金)付掲載(5月28日(木)配達)
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すでに南征の大軍は、水陸から続々と呉へ下つてゐた。
途中、曹操へ、都から知らせがあつた。
「荀彧が毒を服(の)みました」
「……自害したか」
曹操は瞼をとぢた。ほろ苦い眉をひそめて。
暫く黙つてゐたが、やがて、
「荀彧は、ちやうど五十歳だつたな。不愍なことをした、敬侯(ケイコウ)と諡(おくりな)してやれ」
それきり何も云はなかつた。多少、悔ゆる色がないでもない。
日をかさねて、行軍は安徽省に入り、濡須(ジユシユ)の堤(つゝみ)を前にして、二百餘里に亙(わた)る陣を布(し)いた。
「まづ、敵の大勢を見よう」
曹操は、山へ登つた。そして遙かに、呉の陣を見わたすと、長江の支流は百腸のやうに曠野(クワウヤ)を縦横にうねり、その一つの大きな江には数百艘の兵船が望まれる。
敵はその辺りを中枢として水陸に充満してゐた。船櫓(センロ)の鳴るところ旗ひらめき、剣槍の耀(かゞや)くところ士馬の声震ひ、草木も挙(こぞ)つて、国を防ぐために戦(おのゝ)いでゐるかと思はれた。
「あゝさすがに呉は南方の強国だ。この士気では油断はできぬ。汝等も努めてふたゝび赤壁の不覚をくりかへすなよ」
左右の大将を戒めながら彼が山を降(お)りかけた時である。轟然、どこかで一発の石砲がとゞろいた。その砲声からしてすでに北国にはない強力な硝薬の威力を示してゐる。
「すは」
と、𤢖(さは)ぎたつ間もない。山の麓近くの江から忽然と喊声(カンセイ)が起つた。いつのまにか附近の芦荻(ロテキ)の蔭から無数の小艇があらはれ、呉の精猛が煙のやうに堤をこえて突貫して来る。正に、魏の中軍へいきなり楔(くさび)を打ちこんで来たかたちだ。
「退(ひ)くな。奇襲の敵は少数ときまつてゐる」
曹操は、山を降りると、敢然、陣頭に出て乱れ立つ味方をとゝのへた。
すると彼方の堤の上に、青羅の傘蓋を翳(かざ)し、星の如き群将に守られてゐた呉侯孫権が曹操を認めると、馬をとばして馳けて来た。
「赤壁の亡将、まだ生命をぬすんでゐたか」
その声に、曹操は振向いた。
碧眼(ヘキガン)、紫髯(シゼン)、胴長く、脚短く、しかも南人特有な精悍の気満々たる孫権。槍をふるつて、石弾の如く突いて来た。
「何者だつ」
わざと曹操は大喝した。自分よりはるかに若い孫権と、剣槍を以て闘ふ気はない。威だけを示して逃げようとした。
「逃ぐる勿(なか)れ。魏賊」
と、その気を察して、孫権の左右から、韓当、周泰のふたりが分れて、曹操のうしろへ迫つた。
危地に陥つたかと曹操の身が困難に見えたとき、彼の味方も亦(また)、鼓を鳴らして、孫権のうしろを突き崩し、乱軍の相(サウ)を呈しかけた機(しほ)に、魏の許褚は、刀を舞はして周泰、韓当を退け、辛くも曹操を救ひ出して、中軍へ帰つた。
この晩、いちど退(ひ)いたかとみえた呉軍が夜(よ)半(なか)にまた、四面の野や小屋に火を放つて、夜襲して来た。
遠征の疲労にあつた魏の兵は、不覚にも不意をくつて、呉の勢(セイ)に馳(かけ)破られ、夥(おびたゞ)しい死者をすてゝ総軍五十里ほど陣を退(ひ)くのやむなきに立(たち)至つた。
「われながら、まづい戦」
曹操は悶々、自己を責めた。幾日かを空しく守りながら陣小屋の内にかくれて、凝(じつ)と軍書にばかり眼を曝(さら)してゐた。
何か、天来の妙計を、それから求めようとしてゐる悶へがわかる。跫(あし)音(おと)をしのばせて、そつと入つて来た程昱が、
「丞相。おつかれではありませぬか」
と、声ひくゝ慰めた。
「……おゝ、程昱か。呉の堅陣に対して打つ手がない。初手の戦も、彼の攻勢に、味方は漸く防いだのみだ」
「抑々(そも/\)。このたびの御出陣は遷延また遷延をかさね、ちと遅すぎました。故に呉は国防に全力を賭し、その期間に濡須の堤まで築いてしまつた程です。如(し)かず、一応引揚げて、ふたゝび御出征を図られてはどうですか」
その晩、曹操は、ふしぎな夢を見た。焰々(エン/\)たる日輪が雲を捲いて、空中から大江の波間に落ちたとみて眼がさめたのである。
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