吉川英治『三国志(新聞連載版)』(820)日輪(二)
昭和17年(1942)5月28日(木)付掲載(5月27日(水)配達)
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どんな英傑でも、年齢(とし)と境遇の推移と共に、人間のもつ平凡な弱点へひとしく落ちてしまふのは是非ないものとみえる。
むかし青年時代、まだ宮門の一警手にすぎなかつた頃の曹操は、胸いつぱいの志は燃えてゐても、地位は低く、身は貧しく、稀々(たま/\)、同輩の者が、上官に媚(こ)びたり甘言につとめて、立身を計るのを見ると、(何たる〔さもしい〕男だらう)
と、その心事を愍(あはれ)み、また部下の甘言をうけて、人の媚びを喜ぶ上官には猶(なほ)更(さら)、侮蔑を感じ、その愚をわらひ、その弊に唾棄したものであつた。
実に、曽(か)つての曹操は、さういふ颯爽たる気慨をもつた青年だつた。
ところが、近来の彼はどうだらう。赤壁の役の前、観月の船上でも、うたゝ自己の老齢をかぞへてゐたが、老来まつたく青春時代の逆境に嘯(うそぶ)いた姿はなく、ともすれば、耳に甘い近側のことばにうごく傾向がある。
彼もいつか、むかしは侮蔑し、唾棄し、また其(その)愚(グ)を笑つた上官の地位になつてゐた。しかも、今の彼たるや人臣の栄爵を極め、その最高にある身だけに、その巧言令色にたいする歓びも受け容れかたも、倒底、宮門警手の一上官などの比ではない。
いま重臣董昭から、
(この際、魏公の位に登つて、九錫を加へられては如何ですか)
と、すゝめられると、曹操は何を憚(はゞか)る考へもなくすぐに、
(さうだ、なぜ自分は、今まで九錫を持たなかつたらう)
と、すぐその気になつて、朝廷にそのゆるしを求めた。もちろんその意の儘(まゝ)になる。彼は以後、魏公と称し、出るも入るも、九錫の儀仗に護られる身となつた。
九錫の礼といふのは、
一 車馬 大輅(タイロ)、戎輅(ジウロ)。
大輅ハ金車、戎輅ハ兵車ノ事。黄馬八匹。
二 衣服 王者ノ服。袞冕(コンベン)赤舄(セキセキ)。
朱(あけ)ノ履(くつ)タル事。
三 楽県(ガクケン) 軒県(ケンケン)の楽(ガク)、堂下の楽。
昇降必ズ楽ヲ奏ス。
四 朱門(シユモン)(ママ)
門戸は紅門(コウモン)ヲ以テ彩(いろど)ル。
五 納陛(ナフヘイ)
朝陛(テウカイ)ヲ登ル自由。
六 虎賁(コホン) 常時門ヲ衛ル軍三百人、
虎賁軍トイフ。
七 鈇鉞(フエツ) 鈇鉞各々一、
鈇ハスナハチ金斧(キンプ)、銀斧ナリ。
八 弓矢 彤弓(トキュウ)一、彤矢(トウシ)百。
菰弓(コキウ)十、菰矢(コシ)一千、
朱弓、黒弓(コクキウ)ナリ。
(九 秬鬯(キヨチヨウ) 祭祀ヲ行フタメノ酒。)
(新聞連載版は「九」がない。初版本により補う)
これをみた荀彧はかなしんだ。以前の曹操とは次第に変つて来るのを冷静に彼のそばで眺めてゐたのは、彼よりは年下のこの荀彧といふ忠良な一忠臣だつた。
「丞相。すこしあなたも、お年をお召になり過ぎはしませんか」
「なぜだ」
「愚に返つたところがお見うけされます」
「予が九錫の礼を持つたことを云ふのか」
勃然と、曹操は、色をうごかした。荀彧は、静かに。
「さうです。功いよいよ高きほど、御自身は、退謙をお示しあるべきです。然らずんば、折角、三十餘年、旗に漢室への忠誠をかざし、口に万民のためと称しながら、結局、あなた御自身の慾望に過ぎなかつたといふことになりませう。弱冠、生死の迷妄を捨て、百戦苦闘、今日を築いて来ながら、その精神と節操を、門の飾りや往来の見得などゝ取替へるなどは、実に〔つまらぬ〕人生の落(おち)ではありませんか」
涙をふくんで諫(いさ)めると、曹操はぷいと席を去つて、
「おいおい。董昭をよべ」
と、近侍へいひつけながら、大歩して去つてしまつた。
以来、荀彧は、病と称して、自邸にひき籠つてしまつた。建安十七年冬十月、いよいよ南下の大軍は都を出ることになつたが、彼はなほ、曹操から呼びに来ても、
「このたびは御供できません」
と、参加を辞した。
つひに、使者が来た。
「魏公からのお見舞である」
と、使者は、食物(シヨクモツ)の入つてゐる一器を彼の前に贈つた。
見ると、器の上には、「曹操(サウサウ)親(みづか)ラ之ヲ封ス」といふ紙がかけてある。あとで開いてみると、器の中には何も入つてゐなかつた。
「お気持は解つた……。噫(あゝ)」
荀彧は、その夜、自ら毒を服(の)んで死んだ。
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