吉川英治『三国志(新聞連載版)』(819)日輪(一)
昭和17年(1942)5月27日(水)付掲載(5月26日(火)配達)
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今回より14冊単行本の巻の十「三立の巻」に入ります。
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呉侯の妹(いもと)、玄徳の夫人は、やがて呉の都へ帰つた。
孫権はすぐ妹(いもと)に質(たゞ)した。
「周善はどうしたか」
「途中、江(え)の上で、張飛や趙雲に阻(はゞ)められ、斬殺されました」
「なぜ、そなたは、阿斗を抱(だ)いて来なかつたのだ」
「その阿斗も、奪(と)り上げられてしまつたのです……それよりは、母(はゝ)君(ぎみ)の御病気はどうなんです。すぐ母君へ会はせて下さい」
「会ふがよい、母公の後宮へ行つて」
「ではまだ……御容体は」
「至極、お達者だ」
「えつ。お達者ですつて」
「女は女同士で語れ」
いぶかる妹(いもと)を、膠(にべ)もなく後宮へ追ひ立て、孫権はすぐ政閣へ歩を移して、群臣に宣言した。
「予の妹(いもと)は、玄徳の留守に、その家臣共から追はれ、今日、呉へ立帰つた。かくなる上は、呉と荊州とは、事実上、何らの縁故もないことになつた。即時、大軍を起して、荊州を収め、多年の懸案を一挙に解決してしまはうと思ふ。それに就(つい)て、策あらば申立てよ」
すると、議事の半ばに、江北の諜報がとゞいて、
「曹操四十万の大軍を催し、赤壁の仇を報ぜんと、刻々、南下して参る由」
と、あつた。
俄然、軍議は緊張を呈した。
ところへ又、内務吏から、
「重臣の張紘、先頃から病中にありましたが、今朝、息をひきとるにあたり、遺言の一書を、わが君へと、認(したゝ)め終つて果てました」
「なに、張紘が死んだ?」
折も折である。呉の建業以来の功臣。孫権は涙しながらその遺書を見た。
張紘の遺書には縷々(ルヽ)として、生涯の君恩の大を謝してあつた。そして、自分は日頃から、呉の都府は、もつと中央に地の利を占めなければならぬと考へ、諸州に亙(わた)つて地理を按じてゐたが、秣陵(マツリヨウ)(南京附近)の山川こそ実にそれに適してゐる。万世の業礎を固められやうとするなら、ぜひ遷都を実現されるやうに。これこそいま終りに臨んでなす最後の御恩報じの一言であると結んであつた。
「忠義なものである。この忠良な臣の遺言を何で反古(ほご)にしてよいものではない」
孫権は、一方には、刻々迫る戦機を見ながら、一(イチ)面(メン)直(たゞち)に、その居府を、建業(江蘇省・南京)へ遷(うつ)した。
かくてその地には、白頭城(ママ)が築かれ、旧府の市民もみな移つて来た。
また、呂蒙の意見を容れて、濡須(ジユス)(安徽省・巣湖ト長江ノ中間)の水流の口から一帯にかけて、堤(つゝみ)を築いた。これに使役される人夫は日々数万人、呉の国力の旺(さかん)なることは、かうした土木建築にも遺憾なくあらはれた。
もちろん之(これ)は、やがて来(きた)るべきものに対する国防の一端である。来るべきもの、それは曹操の南下だ。
曹操はそれよりもずつと早くから宿望の南征と呉への報復に専ら軍備の拡充を計つてゐた。
すでに四十万の大編制は、
「いつでも」
といふ態勢を整へたので、いよいよ許都を発しようとすると、長史董昭が諂(おもね)つて彼にかうすゝめた。
「およそ古来から、臣として、丞相のような大功をあげられた御方は、是(これ)を歴史に見ても、求めることはできません。周公も呂望(りよぼう)も、比較にはならないでせう。乱世に立つて、群盗乱臣を平(たひら)げ、風に櫛(くし)けづり雨に浴し給ふなど、三十餘年、万民のために、また漢朝のために、身をくだかれて来たことは、ひとしく天(テン)人(ジン)倶(とも)に知るところです。今はよろしく、魏公の位に登つて、九錫(キウシヤク)を加へ、その威容(ヰヨウ)功徳(クドク)を、天下に見せ示すべきでありませう」
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次回 → 日輪(二)(2026年5月27日(水)18時配信)

