吉川英治『三国志(新聞連載版)』(809)西蜀四十一州図(四)
昭和17年(1942)5月15日(金)付掲載(5月14日(木)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 西蜀四十一州図(三)
***************************************
「ごらんなさい。蜀の図です」
「ああ。これは精密なもの。行程の遠近、地形の高低、山川の嶮要、府庫、銭粮、戸数にゐたるまで…まるで坐(ゐなが)ら観るやうである」
玄徳は眸を離さなかつた。
「皇叔。速(すみや)かに思(おぼし)召(めし)をこゝに立て給へ」と張松はそばから熱心に彼の意(こゝろ)をふるひ促した。
「——私に深く交る心友がふたりゐます。法正(ハフセイ)、字(あざな)は孝直(カウチヨク)。もう一名は孟達(マウタツ)、字を子慶(シケイ)といひます。他日、そのふたりが訪ねて参つたときは、諸事わたくし同様に、御相談あつても、慥(たしか)な人物ですから、どうか御記憶にとめておいて下さい」
「——青山(セイザン)老(おい)ズ緑水長ク存ス。いつか先生の芳志に報ふことができるかも知れない」
「この西蜀四十一州図の一巻は、他日、入蜀の道しるべ。又、今日のお礼として、お手許に献上します。どうかお納め置き下さるやうに」
かくて、彼は、先へ立つた。
玄徳は十里亭から戻つたが、関羽、趙雲などは、なほ数十里先まで張松を送つて行つた。
× × ×
益州。それは巴蜀地方の総称である。漢代から蜀は益州、或(あるい)は巴蜀とひろく呼ばれてゐた。
実に遠い旅行だつた。張松は日を経て、漸く故国益州へ帰つて来た。
すでに首都の成都(四川省・成都)へ近づいて来た頃、道の傍(かたは)らから、
「やあ、ようこそ」
「御無事で何よりだつた」
と、二人の友が早くも迎へに出てゐて、その姿を見るなり近づいて来た。
「おゝ、孟達か。法正も来てくれたのか」
張松は馬を降りて、交々(こも/゛\)、手を握り合つた。
「久しく、蜀の茶の味に渇いてゐたらう。さう思つて、彼方の松(シヤウ)下(カ)に、小さい炉をおいて、二人で茶を煮て待つてゐた。すこし休息して行き給へ」
友は彼を誘つて、松の下へ来た。茶を喫し、道中の話などに耽(ふけ)つたが、そのうちに、張松は、
「君たちも、現状のまゝでは、必然、蜀が亡ぶしかないことは知つてゐるだらうが、もしさうとしたら、この蜀に、たれを起死回生の主君と仰ぎたいかね」
と、ふたりに訊ねた。
法正は、怪訝(ケゲン)な顔して、
「その為に君は、遠く使して、魏の曹操に会つて来たのぢやないか。曹操との交渉に、何かまづい事でもあつたのかね」
「まづい。甚だまづい結果になつた。で、実は、君達だけに打明けるが、おれは途中から気持が変つた。蜀へ曹操などを入れたら、蜀の破滅を意味するだけで、蜀の民の幸福にはならん」
「では、誰(たれ)を迎へるのか」
「だから今、君たちに、そつと意中を訊いてみたわけさ。忌憚(キタン)ないところを云つてくれ給へ」
「それはほんとか」
「たれが君等を欺(あざむ)かう」
「ふ——む……」と、法正はうめいて、「わしならば、荊州の劉玄徳とむすびたいと思ふが」
孟達の顔を見ると、孟達も、ひとみを耀(かゞ)やかして、
「さうだ、曹操へ蜀を献じるくらゐなら、玄徳を主と仰いだほうが遙(はるか)にいゝ。本来、初めから玄徳へ使すべきであつたよ」
聞くと、張松は、莞爾(クワンジ)として、「実は……」と、あたりを見まはした。そして二人の顔へ、顔を寄せて、許都を去つてから荊州へ立寄つた事情やら、玄徳と或(あ)る黙契(モクケイ)をむすんで来た事実を打明けた。
「さうか。では偶然、三人の考へが、一致したわけだ。よし、さうなれば大いに張(はり)合(あひ)もある。張(チヤウ)兄(ケイ)、抜かるな」
「万事は胸にある。もし、この儀に就(つい)て、劉璋から君たちに召出しがあつたら、君等こそ抜からずに頼むぞ」
「よいとも」
三人は、血盟して別れた。
次の日張松は、成都に入(い)り、劉璋に謁して、使の結果をつぶさに復命した。
もちろん、曹操のことは、極力(キヨクリヨク)悪(あし)〔ざま〕に云つた。彼には早くから蜀を奪ふ下心があつたので、こちらの交渉など耳にもかけないばかりか、却(かへ)つて張魯の先を越して、蜀へ攻入つて来るやうな気配すら見えたと告げた。
***************************************
次回 → 進軍(一)(2026年5月15日(金)18時配信)

