吉川英治『三国志(新聞連載版)』(808)西蜀四十一州図(三)
昭和17年(1942)5月14日(木)付掲載(5月13日(水)配達)
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「さうです。さうです」と何度も頷(うなづ)いて、張松は杯を受けながら、共鳴を誇張した。
「たゞ徳ある人に依つてのみ、天下はよく保たれる。すなはち亦(また)、諸民の安心楽土もそこにしかない。不肖思ふに劉皇叔は、漢室の宗親。仁徳すでに備はり自(おのづか)ら四民もその高風を知つてゐますから、一荊州を領し給ふにとゞまらず、正統を受け継いで、帝位に即(つ)かれたところで、誰(たれ)も非難することはできないでせう」
玄徳は、耳無きごとく、有るごとく、唯(たゞ)、手を交叉(カウサ)した儘(まゝ)、穏やかに顔を横に振つてゐた。そして、
「先生の御過賞は、ちと当りません。何で玄徳にそのやうな天資と徳望がありませう」
とのみ云つて笑つた。
逗留(トウリウ)三日、張松はこの城中にもてなされて、しかも一日でも一刻でも、不愉快なことは覚えなかつた。
四日目、張松は別れを告げて、蜀へ立つた。玄徳は名残を惜(をし)み、十里亭まで、自身送つて来た。
こゝに少憩して小(さゝ)やかな別宴をひらき、共に杯を挙げて、前途の無事を祈りながら、玄徳は眼に涙をふくんで、
「先生と交(まじはり)をむすぶこと、わづか三日、またいつの日か、お教へを仰ぐことができませう。人生多事、蜀へ帰られてはお忙しいでせうが、折に触れ、荊州に玄徳有りと思ひ出して下さい。鴻雁(コウガン)西へ行くときには、仰いで玄徳も、西蜀に先生あることを胸に呼びかへしてゐるでせう」
と、云つた。
張松はこのとき胸に誓つた。蜀に迎へて、蜀の新天地を創造する人は、正にこの人以外にはないと。
「いや、この度は、三日の間、朝暮御恩に甘え、何等のお報いもなさず、今お別れに際して慚愧(ザンキ)にたへません。唯(たゞ)、皇叔の為に、こゝで一言申し遺(のこ)すならば、荊州の地は、決してあなたの永住に適する領土でありますまい。南に孫権があつて、常に鯨呑(ゲイドン)の気を示し、北に曹操があつて、虎踞(コキヨ)の象(かたち)を現してゐます」
「先生。玄徳もそれを知らぬのではありませんが、如何にせむ、他に身を安んずる所がないのです」
「乞ふ。眼を転じて、西蜀の地を望み給へ。そこは、四方みな険岨(ケンソ)といへ、ひとたび峡水をこゆれば、沃野千里、民は辛抱づよく国は富む。いまもし荊州の兵をひきゐ、こゝを占むれば、大事を興さんこと目前にありと云へませう」
「云ふをやめよ先生。それも知らないではないが、蜀の劉璋は、これも亦(また)、漢室のながれを汲む家。血すじに於て、わが同族。何でその国家を犯してよいものぞ」
「否々(いや/\)。それのお考へは、小義を知つて大義に晦(くら)いものと申さねばならん。元来、劉璋は暗弱の太守、無能の善人。いかにこの時代の大きな変革期を乗りきれませうや。現状の儘(まゝ)では、明日にも漢中の張魯に侵されて五斗米(ゴトマイ)の邪教軍に蹂躙されてしまふしかありません。——如(し)かず、魏の曹操に蜀を取らせ、張魯の侵略を防いで、蜀の民を守らんにはと——このたび張松が上洛の心中には、さうした決意があつたのです。いはゞ蜀の国をわざ/\彼に献じに出向いたものなのでした」
「…………」
「然(しか)るにです。ひとたび、許都の府に足を入れるや、私は眉を顰(ひそ)めました。そこの都市文化は餘りに早、爛熟を呈し、人は驕(おご)り、役人は賄賂を好み、総じて唯物的風潮がみなぎつてゐる。果せる哉(かな)。曹操の人物を見るに及んでも、その軍隊の教練を見ても、事大主義で恫喝的で、私は徒(いたづ)らに、反感を唆(そゝ)られるばかりでした。——思ふに、将来久しからずして、彼曹操かならず漢朝に大きな禍をするでせう。……皇叔、決して、おだてるのではありません。媚(こび)るのでもありません。どうか御自重、また大志を抱(いだ)き、かつ天下万民のため、小義にとらはれないで下さい」
張松は従者を呼んだ。
そして馬の背の荷物のうちから一箇の筥(はこ)を取寄せた。
蓋(ふた)を開いて、これを展じれば、千山万水、峨々たる山道、沃野都市部落、一望のうちに観ることができる。すなはち、彼が蜀を立つときから携へ歩いてゐた「西蜀四十一州図」の一巻だつた。
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