吉川英治『三国志(新聞連載版)』(807)西蜀四十一州図(二)
昭和17年(1942)5月13日(水)付掲載(5月12日(火)配達)
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魏に使して、使を果さず、失意と辱を抱(いだ)いて落ちてきた客が、かくばかり鄭重な出迎へをうけようとは、張松も、意外であつたらしい。
「どうして、劉皇叔には、このやうに張松を篤くお迎へ下さるのか」
訊くと、趙雲は、
「いや、御辺のみに、かう成されるのではありません。総じて、わが主君は客を愛す御方ですから」
と、答へた。
そこからは趙雲の案内で、途中の不自由も不安もなく進んだ。
日をかさねて、荊州の境に入る。そして黄昏(たそが)れ頃、駅館へ着いた。
すると、門外に、百餘人の兵が、二行にわかれて整列した。
張松のすがたを見ると、一斉に鼓を打ち鉦(かね)を鳴らして歓迎したので、張松が、びつくりして立止まると、忽ち、長髯(チヤウゼン)長軀(チヤウク)の大将が、彼の馬前に来て、
「賓客、ようこそ御無事で」
と、にこやかに、出迎への礼をなし、自身、馬の口輪をとつて導いた。
張松はあわてゝ馬を降(くだ)り、
「あなたは、関羽将軍ではありませんか」
と、たづねた。
「左様。此方は羽(ウ)です。どうぞお見知りおきを」
「恐縮々々知らぬこととは申せ、つい馬上にて受礼。おゆるし下さい」
「何の、此方はあなたの出迎へを命ぜられた皇叔の一臣に過ぎません。国賓たる御辺に、左様な御遠慮を抱(いだ)かせては此方の役目不つゝかに相成る。どうか、何なりと御用あれば仰せ下さるやうに」
館中に入ると、関羽は、客のために、夜もすがらもてなし、その接待は懇切を極めた。
次の日はいよいよ荊州城市へ入つた。見ると、城市の門まで、道は塵もとめず掃き清められ、忽ち、彼方から錦幡(キンバン)五色旗をひるがへして、一(ひと)簇(むれ)の人馬がすゝんで来る。
嚠喨(リウレウ)として喇笛(ラテキ)が吹奏され、まつ先に来る鞍上の人を見れば、これなん劉玄徳。左右なるは、伏龍孔明、鳳雛龐統の二重臣と思はれた。
張松は驚いて、馬を降り、あわてゝ路上に拝跪(ハイキ)の礼を執らうとすると、すでに玄徳も馬を降りて、その手を取り、
「かねて、大夫の御高名は、雷(ライ)のごとく承つてゐましたが、雲山(ウンザン)遙(はるか)に隔てゝ、教へを仰ぐこともできなかつた。然るに今日、御国へ還りたまふと聞き、慈母を待つごとく、お待ちしてゐました。暫(しば)しなと、渇仰(カツガウ)の情を叙(の)べさせて下さい。私の城へ来て」
「垢(あか)汚(じ)みたこの貧客に、御家中まで遣(つか)はされ、且つ今日は、過分なお出迎へ。張松たゞ/\恐縮のほかございません」
曹操のまへでは、あのやうに不遜を極めた張松も、玄徳のまへには、実に、謙虚な人だつた。
人と人との応接は、要するに鏡のやうなものである。驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒つてゐるやうなものと云へよう。
城中の歓迎は、豪奢ではないが、雲山万里の旅客にとつては、温か味を抱(いだ)かせた。
その際玄徳は、世上一般の四方山ばなしに興じてゐるだけで、蜀の事情などは少しも訊ねなかつた。
却(かへ)つて、張松のはうから、話題に飽いて、こんな質問をし出した。
「いま、皇叔の領せられる土地は、荊州を中心に、何十州ありますか」
孔明がそばから答へた。
「州郡もすべて借り物です。われ/\は御主君に、これを奪(と)つて領有することが、何の不義でもないことを力説してゐますが、わが御主君は物堅く、呉の孫権の妹(いもうと)君(ぎみ)を夫人にしてをられる関係に義を立てゝ、いまなほ真に御自身の国といふものをお持ちになつてをりません」
龐統も、口をそろへて、
「わが主玄徳は、人みな知るとほり、漢朝の宗親でありながら、少しも自分といふものを強く主張しようとなさらんのです。……今、その漢朝にあつて、位(くらゐ)人臣を極め、専政を恣(ほしいまゝ)にしてゐる者のごときは、元々、匹夫下郎にもひとしいのですが」
と、いかにも歯(は)痒(がゆ)さうに云つて、張松へ杯をさした。
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