吉川英治『三国志(新聞連載版)』(806)西蜀四十一州図(一)
昭和17年(1942)5月12日(火)付掲載(5月11日(月)配達)
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覇者は己れを凌(しの)ぐ者を忌(い)む。
張松の眼つきも態度も、曹操は初めから虫が好かない。
しかも、彼の誇る、虎衛軍五万の教練を陪観するに、いかにも冷笑してゐる風がある。曹操たる者、怒気を発せずにはゐられなかつた。
「張松とやら。いま汝は、蜀は仁政を以て治める故、兵馬の強大は要らんとか申したが、もし曹操が西蜀を望み、この士馬精鋭をもつて押(おし)よせたときは如何。蜀人みな鼠の如く、逃げ潜む術(わざ)でも自慢するか」
「はゝゝゝ。何を仰せられる」
張松は口を曲げて答へた。
「説聞(きくならく)。魏の丞相曹操は、むかし濮陽に呂布を攻めて呂布に弄ばれ、宛城に張繡と戦ふて敗走し、また赤壁に周瑜を恐れ、華容に関羽に遭つて泣訴して命を助かり、なほなほ、近くは渭水潼関の合戦に、髯を切り、戦袍(ひたゝれ)を被(かぶ)つて、辛くも逃げのがれ給ひしとか。さる御名誉を持つ幕下の将士とあれば、たとい百万、二百万、挙げて西蜀に攻め来(きた)らうとも、蜀の天嶮、蜀兵の勇、これを悉(ことごと)く屠むるに、なんの手間暇が要りませうや。丞相もし蜀の山川風光の美もまだ見給はずば、いつでもお遊びにおいでください。おそらくふたゝび銅雀臺にお還りの日はないでせう」
どつちが威圧されてゐるのか分らない。ずゐぶん他国の使臣には会つたが、曹操のまへでこれほど思ひきつたことを云つた男は曽(か)つて一人もない。
当然、曹操は嚇怒した。揚修(ママ)に向つて、
「言語道断な曲者(しれもの)。その首を、塩(しほ)桶(をけ)に詰めて、蜀へ送り返せ」
と、身をふるはせて罵つた。
揚修(ママ)は極力辯護した。不遜な言は吐くが、張松の奇才は実に測り知れない。どうか寛大な御処置を垂れてください。私の身に代へてもと嘆願した。
「いかん。断じて成らん」
曹操はきかない。然(しか)し、荀彧まで出て、かゝる奇能の才を殺すことは、やがて天下に聞えると、必ず丞相の不徳を鳴らす素因の一つに数へられませう。殺すことだけはお止めになつたほうが宜(よろ)しい。さうい云つて共々諫(いさ)めた。
「然らば、百棒を加へて、場外へ叩き出せ」
こんどは、兵に命じた。
張松は忽ち大勢の兵に囲まれて遮二無三、練兵場の外に引ずり出された。そして鉄拳を浴び、足(あし)蹴(げ)をうけ、半死半生にされて突き出された。
「無念」
張松はすぐに本国へ帰らうと思つた。然し、つら/\思ふに、自分が魏に来た心の底には、蜀は倒底、いまの暗愚な劉璋では治まらない。いづれ漢中に侵略される運命にある。——で、こんどの使命を幸に、もし曹操の人物さへよかつたら、魏の国に蜀を合併させるか、属国となすか、いづれにせよ、蜀は曹操に取らしてもよい考へでゐたのである。
「よしつ。この報復には、きつと彼に後悔をさせてみせるぞ。自分も、国を出るとき、諸人の前で大言を放つて来たてまへ、空しくこんな辱(はぢ)を土産にしては帰れない」
彼は、腫れ上つた顔に、療治を加へると、すぐ翌る日、相府にも断わらず、従者を連れて許都を去つてしまつた。
「蜀の小男が、よけい小さくなつて、蜀へ帰つて行つた」
都の者は、笑つてゐたが、何ぞ知らん、彼は途中から道を更(か)へて、荊州の方へ急いでゐたのだつた。そして、郢州(エイシウ)の近くまで来ると、彼方から一隊の軍馬が、整然と来て、
「そこへ参られたは、蜀の別駕張松どのではなきや」
と、先なるひとりの大将がいふ。張松が、然り、と答へると、その武将はひらりと馬を降りて、礼を施し、
「それがしは、荊州の臣、趙雲子龍。主人玄徳の命をうけ、これまでお出迎へに参りました。遠路、難所を越えられ、さだめしお疲れでせう。いざあれにて御休息を」
導いた一亭には、酒を備へ、茶を煮、洗浴の設けまでしてあつた。
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