吉川英治『三国志(新聞連載版)』(805)孟徳新書(まうとくしんしよ)(二)
昭和17年(1942)5月10日(日)付掲載(5月9日(土)配達)
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多少、張松に好意をもつてゐたらしい楊修も、彼の無遠慮なわらひ方と、その大言に、反感をおぼえたらしく、眼に蔑(さげす)みをあらはして云つた。
「いくら何でも、まさか三尺の童子が、このやうな難解な書を、暗誦(そらん)じてゐるなどゝいふ事はありますまい。法螺(ほら)もおよそにおふきにならんと、たゞ人に片腹痛い気持を起させるだけですよ」
「噓だとお思ひなさるのか」
「たれも真にうける者はないでせう。試みに、御身がまづ自分で暗誦(そらよみ)してごらんなさい。出来ますか」
「三尺の童子でもなすことを、何でそれがしにお試しあるか」
「まあまあ、事実を示してから、お説は聞くとしやうではありませんか」
「よろしい。お聞きなさい」
張松は、胸を正し、膝へ手をおくと、童子が書物を声読するやうに、孟徳新書の初めから終り迄(まで)、一行一字もまちがひなく誦(よ)んだ。
楊修はびつくりした。
急に、席を下つて、恭しく、張松を拝し、
「まつたく、お見〔それ〕申しました。私もずゐぶん著名な学者や賢者にも会ひましたが、あなたのやうな人物に会つたのは初めてです、……暫くこれにお待(まち)ください。曹丞相に申しあげて、もう一度、改めて、御辺と対面なさるやうに、お勧め申して来ますから」
楊修は青年らしい興奮を面にもつて、すぐ曹操のところへ行つた。そして、なぜ蜀の使にあんな冷淡な態度をお示しになつたのか、とその理由を詰問(なじ)つた。
曹操が云ふには、
「一見して分るではないか。あの矮短(ワイタン)長臂(チヤウヒ)な体つきは、まるで手長猿だ。予は歓ばん」
「容(かたち)や貌(かほ)をもつて、人物を選りわけてゐたら、偽者ばかりつかんで、真人(ほんもの)を逸しませう。さうさう、むかし禰衡(ネイカウ)といふ畸人(キジン)がゐましたが、丞相は、あの人間さへ用ひたではありませんか」
「それは、禰衡には、一代の文才と、その文の力を以て、民心をつかんでゐた能があつたからだ。いつたい張松などに、何の能があるか」
「どうして、どうして、決して端倪(タンゲイ)するわけにゆきません。海を倒にし、江を飜す辯才があります。丞相の著されたかの孟徳新書をたつた一度見ただけで、経を誦(よ)むごとく、暗誦(そらん)じてしまひました。のみならず、博覧強記、底が知れません。彼(あ)の書は、戦国時代の無名氏の著書で、おそらく丞相の新著ではない。蜀の国では、三歳の童子も知つてゐるなどとも云つてゐました」
楊修はやゝ賞(ほ)めすぎた。青年だから是非もないが、曹操がどんな顔して最後のはうのことばを聞いてゐたか、気もつかずに、賞めちぎつてしまつた。
「中国の文化にうとい遠国の使者だ。わが大国の気象も真の武威も知らんのでそんな囈言(たはごと)を申すとみえる。——楊修」
「はい」
「明日、衛府の西教場で、大兵調練の閲兵をなすことになつてをるから、汝は、張松を連れて、見物に来い。あれに、魏の軍隊のどんなものかを見せてやれ」
畏(かしこ)まつて、楊修は次の日、張松をつれて、練兵場に赴いた。
この日、曹操は、五万の軍隊を、衛府の練兵場に統率し、甲鎧(カフガイ)燦爛(サンラン)、龍爪(リウサウ)の名馬にまたがつて、閲兵してゐた。
虎衛軍(コヱイグン)五万、槍騎隊三千、儀仗一千、戦車、石砲、弩弓手(ドキウシユ)、鼓手、螺手(ラシユ)、干戈隊(カンクワタイ)、鉄弓隊など、四団八列から鶴翼(カクヨク)にひらき、五行に列し、また分散して鳥雲(テウウン)の陣にあらたまるなど、雄大壮絶な調練があつた後、曹操は、桟敷の下へ馬を返して来た。
そして、少し汗ばんだ面には紅を呈し、さも得意さうに、張松を見つけて呼びかけた。
「どうだな、蜀客(シヨクカク)。蜀にはかういふ軍隊があるか」
張松はさつきから眼を斜めにして見物してゐたが、にこと笑つて、
「ありません。——が蜀はよく文治と道義によつて治まり、今日までのところ、兵革の必要はなかつたのです。貴国の如くには」
と、答へた。
又しても、曹操の心を損じはしないかと、楊修はそばで気をもんでゐた。
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