吉川英治『三国志(新聞連載版)』(804)孟徳新書(まうとくしんしよ)(一)
昭和17年(1942)5月9日(土)付掲載(5月8日(金)配達)
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「こゝは奥書院、俗吏は出入しませんから、暫(しば)し静談しませう。さあ、お着席ください」
楊修は、張松へ座をすゝめ、自ら茶を煮て、遠来の労を慰めた。
「蜀道は天下の嶮岨とうけたまはる。都(みやこ)迄(まで)来るには、一(ひと)方(かた)ならぬ御辛苦だつたでせう」
張松は、頭(かしら)を振つて、
「君命をうけて使するに、何の万里も遠しとしませう。火を踏み、剣(つるぎ)を渡るも、厭(いと)ふことではありません」と、答へた。
楊修はかさねて訊いた。
「蜀の国情や地理は、老人のはなしとか、書物とかで知るのみで、直接蜀の人から伺(うかゞ)つたことがない。ねがはくば、御本国の概要を聞かせ給へ」
「されば、蜀はわが大陸の西部に位し、路(みち)に錦江(キンコウ)(ママ)の嶮をひかへ、地勢は剣閣(ケンクワク)の万峰(バンポウ)に囲まれ、周囲二百八程、縦横三万餘里、鶏鳴(ケイメイ)狗吠(クケン)(ママ)白日も聞え、市井(シセイ)点綴(テンテイ)、土はよく肥え、地は茂り、水旱(スヰカン)の心配は少く、国富み、民栄え、家に管絃あり、社交に和楽あり、人情は密に、文をこのみ、武を尚(たふと)び、百年乱を知らずといふ国〔がら〕です」
「おはなしを承つただけでも、一度遊びに行つてみたくなりますね。して、あなたはその蜀で、どんな役目を勤めてをられますか」
「お恥(はづか)しい微賤(ビセン)です、劉璋の家中に於て、別駕(ベツガ)の職に就いてをります。失礼ながら其(そこ)許(もと)は?」
「丞相府の主簿(シユボ)です」
「名門楊家は、数代(スウダイ)簪纓(サンエイ)(ママ)の誉(ほまれ)高く御父祖はみな宰相や大臣の職にあられたのではないか。その子たる者が、何故、丞相府の一官吏となつて、賤(いや)しき曹操の頤使(イシ)に甘んじて居らるゝか、なぜ、廟堂に立つて、天子を佐(たす)け、四海の政事(まつりごと)に身命をさゝげようとはなさらぬか」
「……」
楊修は、身を辱(は)づるかの如く、顔(かほ)紅(あか)らめた儘(まゝ)、しばし俯(うつ)向いてゐたが、
「いや、丞相の門下にあつて、軍中兵粮の実務を学び、また平時には御書庫を預つて、庫中万巻の書を見る自由をゆるされてゐるのは、自分にとつて大きな勉強になりますからね」
「はゝゝ、曹操に就(つい)て学ぶことなどがありますかな。説聞(きくならく)、曹丞相は、文を読んでは、孔孟の道も明らかにし得ず、武を以ては、孫呉の域にいたらず、要するに、文武のどちらも中途半端で、たゞ取得(とりえ)は、覇道強権を徹底的にやりきる信念だけであると。——かうわれわれは聞いてをるが」
「松(シヨウ)君(クン)。それは君の認識がちがふ。蜀の辺隅にゐるため、如何せん、君の社会観も人物観も、ちと狭い。丞相の大才は、到底おわかりになるまい」
「いや/\、僕の偏見よりは、却(かへ)つて、中央の都府文化に心酔し、それを万能として、天下を見てゐる人の主観には、往々、病的な独善がある。曹操の大才とは、一体どれ程なものか、何か端的にお示しあるなら、伺ひたいものだが」
「よろしい、たとへば、これを御覧なさい」
楊修は起(た)つて、書庫の棚から、一巻の書を取出し張松の手に渡した。
題簽(ダイセン)には、孟徳新書とある。
張松は、ざつと内容へ目を通した。全巻十三篇、すべて兵法の要諦を説いたものらしい。
「これは、誰(たれ)の著ですか」
「曹丞相が御自身、軍務の餘暇に筆をとられて、後世兵家のために著された書物です」
「はゝあ、器用なものだな」
「古学を酌(く)んで、近代の戦術を説き、孫子十三篇に擬(なぞら)へて、孟徳新書と題せらる。この一書を見ても、丞相の蘊蓄(ウンチク)のほどが窺へませう」
張松はわらつて、楊修の手へ、書物を返しながら、
「わが蜀の国では、これくらゐな内容は、三尺の童子も知り、寺小屋でも読んでをる。それを孟徳新書などゝは……あはゝゝ、新書とは、人をばかにしたものだ」
「聞き捨てにならぬおことば、然らばこの書の前に類書があると云はるゝか」
「戦国春秋の頃、すでにこれとそつくりな著書が出てをる。著者が誰(たれ)とも知れぬもの故、丞相はその儘(まゝ)、書(かき)写(うつ)して、自分の頭から出たものゝやうに、無学の子弟に自慢してゐるもので御座らう。いやはや、とんだ新書もあるものだ」
哄笑(コウセウ)また哄笑して、張松はわらひを止めなかつた。
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次回 → 孟徳新書(二)(2026年5月9日(土)18時配信)

