吉川英治『三国志(新聞連載版)』(803)蜀人・張松(三)
昭和17年(1942)5月8日(金)付掲載(5月7日(木)配達)
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画工は五十日ほどかゝつて漸くそれを描き上げた。四十一州に亙(わた)る蜀の山川谿谷、都市村落、七道三道の通路、舟帆(シウハン)、駄馬の便、産物集散の模様まで、一巻数十尺の絵巻のうちに写されてゐた。
「これを展(ひら)けば、坐(ゐなが)らにして、蜀に遊ぶやうなものだ。よしよし。上出来」
張松は、画工を犒(ねぎら)つた。
彼は直(たゞち)に、劉璋に謁して、出発の準備も調(とゝの)ひましたればと、暇(いとま)を告げた。
劉璋は、かねて用意しておいた金珠(キンシユ)錦繡(キンシウ)の贈物を、白馬七頭に積んで、彼に託した。もちろん曹操への礼物である。
千山万峡、嶮岨を越えて、使者の張松は都へ向つた。
時、曹操は銅雀臺へ遊びに行つて、都へ還つたばかりであつた。
江南の風雲は、なほ測り難いものがあるが、西涼の猛威を、一撃に粉砕し、彼の意(こゝろ)はいよいよ驕(おご)り、彼の臣下は益々(ます/\)慢じ、いまや、曹操一門でなければ人でないやうな、我世の春を、謳歌してゐた。
「さすがは、花の都」
張松も、眼を驚かされた。魏の文化の眩(まばゆ)さに、白馬七頭に積んで来た礼物も、曹操の前に出すには気(キ)恥(はづか)しいやうな気がした。
ひとまづ旅館に落着き、相府に入国の届を出し、また迎使部(ゲイシブ)の吏を通じて、拝謁簿に姓氏官職などを記録し、
「やがて丞相からお沙汰のあるまで相待つやうに」
といふ吏員のことばに従つて、その日の通知を待つてゐた。
ところが、幾日たつても、相府からの召がないので怪しんでゐると旅亭の館主が、
「それは、姓氏を簿に書き上すとき、賄賂(まいなひ)を吏員に贈らなかつたからでせう」
と、注意してくれた。
そこで、客舎の主人から莫大な賄賂を相府の吏員に贈ると、漸く五日目ごろに、沙汰があつて、張松は、曹操に目通りすることができた。
曹操は、一(イチ)眄(ベン)をくれて、
「蜀はなぜ毎年の貢物を献じないか」
と、罪を責めた。
張松は、答へて、
「蜀道は、嶮岨な上に、途中盗賊の害多く、とうてい、貢を送る術もありません」
と、云つた。
曹操は、甚しく、自分の威厳を損ぜられたやうな顔をして、
「中国の威は、四方に遍(あまね)く、諸州の害を掃つて、予は今や坐(ゐなが)らに天下を治めておる。何で、交通の要路に、野盗乱賊が出没しようか」
「いやいや。決してまだ天下は平定してゐません。漢中に張魯あり、荊州に玄徳あり、江南に孫権の存在あり。加ふるに、緑林山野、なほ無頼の巣窟に適する地方は、どれほどあるかわからない」
曹操は急に座を起(た)つて、ぷいと後閣へ入つてしまつた。激怒した容子である。張松は、ぽかんと、見送つてゐた。
階下に整列してゐた近臣も、興を醒(さま)して、張松の愚を嗤(わら)つた。
「外国の使臣として、遙々参りながら、敢(あへ)て丞相の御心に逆らうとは、いやはや、不束(ふつゝか)千万。再度のお怒りが降(くだ)らぬうち、疾(と)く、疾く蜀へ帰り給へ」
すると張松は、その低い鼻の穴から、ふゝゝと、嘲笑をもらした。
「さてさて、魏の国の人は噓で固めてゐるとみえる。わが蜀には、そんな媚言(ビゲン)や諂(へつら)ひを言ふ佞人(ネイジン)はゐない」
「だまれ。しからば、魏人は諂佞(テンネイ)だといふか」
「おや、誰(たれ)だ?」
声に驚いて、張松が振向くと、侍立の諸臣のうちから、一人の文化的な感じのする青年が、つかつかと進んで、張松の前へ立つた。
年の頃まだ二十四、五歳。神貌清白、眉ほそく、眼すゞやかである。これなん弘農の人で、一門から六相三公を出してゐる名家(メイカ)楊震(ヤウシン)の孫で、楊修(ヤウシウ)、字(あざな)は徳祖(トクソ)といふ。いま曹操に仕へて、楊(ヤウ)郎中(ラウチウ)といはれ、内外倉庫の主簿(シユボ)を勤めてゐた。
「外国の使臣といへ、黙つて聞いてをれば、怪(け)しからんことを言ふ。すこし君に談じつける儀があるから、僕に従つてこつちへ来給へ」
楊修はさういつて、張松を閣の書院へひつぱつて行つた。張松は、この青年の魅力に何か心をひかれたので、黙つて彼のあとに従(つ)いて行つた。
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