吉川英治『三国志(新聞連載版)』(802)蜀人・張松(二)
昭和17年(1942)5月7日(木)付掲載(5月6日(水)配達)
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師君張魯の弟に、張衛(チヤウヱイ)といふ大将がゐる。
いま、閻圃の言を聞くと、その張衛は、
「然り、然り。閻圃の説こそ、大計といふものである」
と云ひながら前へ進んで、彼の献策を更に裏書して、かう大言した。
「先頃(さきごろ)来(ライ)、西涼の馬超が破れた事から、領内混乱に陥り、西涼州の百姓たちの逃散して、漢中に移り来るもの、すでに数万戸にのぼると聞く。——加ふるに、従来、漢川(カンセン)の民、戸数十万に餘り、財ゆたかに糧は盈(みち)足り、四山谿流、道は嶮岨にして、一夫これを守れば万卒も通るを得ず、と古来から云はれてをる。もしこれに蜀を加へて、統治を施し、よく武甲と仁政を以て固め、上に帝王を定むるならば、これこそ千年の基業を開くことができるに相違ない。——家兄(このかみ)、願はくば不肖張衛に、入蜀の兵馬を授けたまへ。誓つて、この大理想を顕現してお目にかけん」
両者の言に、張魯も意をうごかされて、
「よろしからう。疾く準備にかゝれ」
と、聴許した。
かくて、漢中の兵馬が、ひそかに、蜀を窺つてゐるとき、その蜀は今、どんな状態にあつたらうか。
巴蜀。すなはち四川省。
長江千里の上流、揚子江の水も三峡の嶮に狭(せば)められて、天遠く、碧水(ヘキスヰ)愈々(いよ/\)急に、風光明媚な地底の舟行を数日続けてゆくと、豁然(クワツゼン)、目のまへに一大高原地帯が展(ひら)ける。
亜細亜の屋根、パミール高原に発する崑崙(コンロン)山系の起伏する地脈が、支那西部に入つては岷山(ミンザン)山脈となり、それらの諸嶺をめぐり流れる水は、岷江、金沱江(キンダカウ)、涪江(フカウ)、嘉陵江(カリヨウカウ)などに岐(わか)れては又ひとつ揚子江の大動脈へ注いで来る。
四川の名は、それに起因(おこ)る。河川流域の盆地は、米、麦、桐油、木材などの天産豊かであり、気候温暖、人種は漢代初期からすでに多くの漢民族が入つて、いはゆる巴蜀文化の殷賑(インシン)を招来してゐた。その都府、中心地は、成都(セイト)である。
たゞこの地方の交通の不便は言語に絶するものがある。北方、陝西省へ出るには、有名な剣閣の嶮路を越えねばならず、南は巴山(ハザン)山脈に遮られ、関中に出る四道、巴蜀へ通づる三道も嶮峻巍峨(ケンシユンギガ)たる谷あひに、橋梁をかけ蔦葛(つたかづら)の岩根を攀(よ)ぢ、わづかに人馬の通れる程度なので、世にこれを、「蜀の桟道」と呼ばれてゐる。
さて。かういふ蜀も、遂に、時代の外の別天地ではあり得なかつた。
蜀の劉璋(リウシヤウ)は、漢の魯恭王(ロケフワウ)(ママ)が後胤といはれ、父劉馬(リウバ)(ママ)が封を継いでゐたが、その家門と国の無事に馴れて、いはゆる遊惰脆弱な暗君だつた。
「漢中の張魯が攻めて来るとか。いかゞすべきぞ。噫(あゝ)、どうしたらいゝか」
彼は、生れて始めて、敵といふものが、すぐ隣にゐたのを知つたのである。
蜀の諸大将も、みな怯(おび)えた。するとひとり、評議の席を立つて、
「不肖ですが、それがし、三寸の舌をうごかして、よく張魯が軍勢を退けて御覧にいれる。乞ふ、お案じあるな」
と、云つた者がある。
見れば、その人は、背丈五尺そこそこしかなく、短身(タンシン)長臂(チヤウヒ)、おまけに、鼻はひしげ、歯は出ツ歯で、額は鋤(すき)の刃みたいに広くて生え際がてらてらしてゐる。
たゞ大きいのは声だけだ。声は鐘を撞(つ)くやうに餘韻と幅がある。
「やあ、張松か。いかなる自信があつて、左様な大言を吐くか」
劉璋以下、諸大将が半(なかば)危ぶみながら問ふと、
「百万の兵も、一心に動く。一心の所有者に、それがしの一舌を以て説く。何で、動かし得ぬことがありませうや」
と、許都に上つて、曹操に会見し、将来の利害大計を述べて、この禍を変じて、蜀の大幸として見せん——と、諄々(ジユン/\)、腹中の大方策を披瀝した。
張松の考へてゐるその内容とはどんなものか、とにかく、彼の献策は用ひられることゝなり、彼は早速、遠く都へ使して行くことになつた。
その旅行の準備にかゝる旁(かたはら)、彼は自分の家に、画工を雇つて、西蜀四十一州の大鳥瞰図を、一巻の絵巻にすべく、精密に写させてゐた。
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