吉川英治『三国志(新聞連載版)』(801)蜀人(しよくじん)・張松(ちやうしよう)(一)
昭和17年(1942)5月6日(水)付掲載(5月5日(火)配達)
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近年、漢中(陝西省・漢中)の土民のあひだを、一種の道教が風靡してゐた。
五斗米教(ゴトマイケウ)。
仮にかう称(よ)んでおかう。その宗教へ入るには、信徒になるしるしとして、米五斗を持てゆくことが掟になつてゐるからである。
「わしの家はなぜか病人がたえない」
とか、
「かう災難つゞきなのは、何かのたゝりに違ひない」
とか、それと反対に、
「うちの躄(いざり)が立つた」
などといふのもあるし、
「五斗米教のお札を門(かど)に貼つてから、奇妙に盗賊が押(おし)掛(かけ)て来ない」
などと迷信、浮説、噓、ほんと、雑多な声に醸されながら、いつのまにか漢中におけるこの妖教の勢力とその殿堂は、国主を凌(しの)ぐばかりであつた。
教主は、師君と称してゐる。その素姓を洗へば、蜀の鵠鳴山(コウメイザン)にゐて、やはり道教をひろめてゐた張衡(チヤウカウ)といふ道士の子で、張魯(チヤウロ)、字(あざな)を公棋(コウキ)(ママ)といふ人物だつた。
これが、漢中に来て、いはゆる五斗米教を案出し、
「あわれな者よ。みなわれに縋(すが)れ。汝等の苦患はみな張魯がのぞいてやる」
と、愚民へ呼びかけた。
民衆の逆境は、このときほど甚(はなはだ)しい時代はない。どこを捜したつて満足に家内揃つてその日を楽しんでゐるなどといふ家はない。しかも教養なく、あしたの希望もない民衆は、
「これこそ天来の道士様」
と、忽ち、五斗米をかついで礼拝に来る者が、廟門(ベウモン)に市(いち)をなした。
師君の張魯をめぐつて、治頭(ヂトウ)、大祭酒(ダイサイシユ)などといふ道者がひかへ、その下に鬼卒(キソツ)とよぶ祭官(サイカン)が何百人とある。
不具、病人などが、祈禱をたのむと、
「懺悔せよ」
と、暗室に入れ、七日の後、名を書いたお札を、一通は山の上に埋(い)けて、天神に奏するものだといひ、一通は平地に埋けて地神に詫(わび)をするといひ、もう一通は水底に沈めて、
「おまへの罪業は、水神にねがつて、流してもらつた」
と、云ひ聞かせる。
愚民は信ずるのだつた。その妄信から時々、奇蹟が生ずる。すると、大祭を行ふ。漢中の街は、邪宗門のあくどい彩(いろ)で塗りつぶされ、廟門には豚、鶏(とり)、織物、砂金、茶、あらゆる奉納品が山と積まれ、五斗入袋は、十倉の棟にいつぱいになる。
かうして、邪教の猖獗(セウケツ)は、年(とし)毎(ごと)に甚だしくなり、今年でもう三十年にもなるが、いかにせん、その悪弊は聞えて来ても、中央に遠い巴蜀(ハシヨク)の地である。令を以て禁止することも、兵を向けて一掃することもできない。
そこで却(かへ)つて、教主張魯に対しては、卑屈な懐柔策を取つて来た。彼に鎮南中郎将といふ官職を与へ、漢寧(カンネイ)の太守に封じて、そのかはりに
「年々の貢(みつぎ)を怠るなかれ」
と誓はせて来たのである。
従つて、五斗米教は、中央政府の認めてゐる官許の道教として、愈々(いよ/\)毒を庶民に植ゑつけて、今や巴蜀地方は、一種の教門国と化してゐた。
すると、つい此(この)頃のこと。
漢中の一百姓が、自分の畑から、黄金の玉璽(ギヨクジ)を掘出し、びつくりして庁へ届けて来た。
張魯の群臣は、みな口をそろへて、
「これこそ、天が、漢寧王の位に即(つ)くべし、と師君へ授け給うたもの」
と、彼に、王位に即くことをすすめた。
すると、閻圃(エンホ)といふ者が、思慮ありげに、かう進言した。
「なるほど今は、中央の曹操、西涼の馬超を討つて、気いよ/\驕(おご)り、人民としては、いはゆる天井をついた象(かたち)。たしかに撃つべきときに違ひないが、まづ我等は、蜀四十一州を内に併合統一して、しかる後、彼に当るのが、正しくないかと考へられますが。——師君の御賢慮はいかゞでせうか」
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