吉川英治『三国志(新聞連載版)』(800)兵学談義(三)
昭和17年(1942)5月5日(火)付掲載(5月4日(月)配達)
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あすは都へ還るといふ前夜、曹操は諸大将と一(イツ)夕(セキ)の歓(クワン)を共にした。
その席上で、一人の将が、曹操に訊いた。
「後学のため、伺ひますが。——合戦の初めに、馬超の軍勢は、潼関に拠つてゐましたから、渭水の北は遮断された形でした」
「ムヽ」
「で当然、河の東を攻て、お進みかと思ひのほか、さはなくて、徒(いたづら)に野陣の危険に曝(さら)されたり、後(のち)又北岸に陣屋を作り、いつになく、戦法に惑ひがあるやうに見えましたが……」
「それは、難きを攻めず、易きを衝く、兵法の当然を行つたまでだ」
「それなら解りますが、今度はその反対のやうに動いたとしか思はれませんでしたが」
「その条件を、敵方に作らせるよう、初めには、わざと敵の充実してゐる正面に当ると見せ、敵兵力を悉(ことごと)く味方の前に充実させておいてから、徐晃、朱霊などの別働隊を以て、敵兵力の薄い河の西からたやすく越えさせたわけぢや」
「なるほど、では丞相の主目的は、むしろ別働隊のはうにあつたわけですな」
「まづ、そんなものか」
「後(のち)、わが主力は北へ渡り、堤にそつて寨(とりで)を構築し、屢々(しば/\)失敗したあげく、氷の城まで築かれましたが、丞相も初めには、かう早く戦が終らうとはお思ひなさらなかつたものでしたか」
「いやいや、あれはわざと、味方の弱味を過大に見せ、敵を驕(おご)り誇らせる為と、もう一つは、西涼の兵は悍馬(カンバ)の如く気短かだから、その鋭角を鈍らすため、殊(こと)更(さら)に、悠長と見せて彼を焦(いら)立(だ)たせた迄(まで)の事」
「敵中作敵の計は、疾(と)く前から考へのあつたことですか」
「戦機は勘だ。また天来の声だ。常道ではいへない。戦前の作戦は、大事をとるから、たゞ敗けない主義になり易い。それがいざ戦に入ると疾風迅雷を要してくる。又序戦では、参謀の智嚢(チノウ)と智嚢とは敵味方とも、いづれ劣らぬ常識線で対峙する。だがそのうちに、天来の声、いはゆるカンをつかみ、いづれかゞ敵の常道を覆すのだ。こゝが勝敗のわかれ目になる。すべて兵を用ひるの神変妙機は一概にはいひ難い」
かれの解説は、子弟に講義してゐるやうに、懇切であつた。諸将は又、口々に訊ねた。
「出陣の初め、丞相には、西涼軍の兵力が刻々と増し、その中には八旗の旗本、猛将なども多いと聞かれたとき、手を打つてお歓びになりましたが、あれは如何なるお気持であつたのですか」
「西涼は、国遠く、地は険に、中央から隔てられてゐる。その王化の届かぬ暴軍が、いちどに集まつて来てくれゝば、これは労せず招かず猟場に出てくれた鹿や猪(しゝ)と同じではないか」
「ははあ、成程」
「もし、彼等が、西涼を出ず、王威にも服せず、たゞ辺境にゐて、威を逞(たくま)しうしてゐるのを、遠征しようとするならば、莫大な軍費と兵力と年月を必要とする。おそらく一年や二年ぐらゐでは、今度ほどな戦果を収めることはできなかつたらう。……で思はず、西涼軍が大挙して来ると聞いたとき、嬉しさのあまり、歓びを発したが、それに不審を抱(いだ)いたことは、そち達も漸く兵を語る眼がすこしあいて来たといふものである。この上とも実戦の度には、日頃の小智に囚(とら)はれず、よく大智を磨くがよい」
語り終つて、曹操は、杯をあげた。諸大将もみな嘆服して、
「丞相いまだ老いず」
と、心から賀した。
都に還ると、献帝はいよいよ彼を怖れ給うて、自身、鸞輿(ランヨ)に召して、凱旋軍を迎へ、曹操を重んじて、漢の相国(サウコク)蕭何(セウカ)の如くせよと仰せられた。すなはち彼は、履(くつ)のまゝ殿上に昇り剣を佩(は)いて朝廷に出入するのも許される身となつたのである。
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