吉川英治『三国志(新聞連載版)』(799)兵学談義(二)
昭和17年(1942)5月3日(日)付掲載(5月2日(土)配達)
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敵中作敵の計(はかりごと)が見事成功したのを望んで、曹操は馬を前線へ進めて来た。そして、馬超を逸したと聞くと、
「画龍(グワレウ)点睛(テンセイ)を缺く」
と、つぶやいて、すぐ馬前の人々へ云つた。
「馬超に従(つ)いて落ちて行つた兵力はどの位だつたか」
ひとりの大将が答へて云ふ。
「龐徳、馬岱などの、約千騎ばかりです」
「なに、千騎。——それならもう無力化したも同じものだ。汝等、日夜をわかたず、彼を追(おひ)かけて、殊勲(てがら)を競へ。もし馬超の首を携へて来たら、その者には、千金を賞するであらう。又馬超を生捕つて来た者には、身分を問はず、万戸侯(バンココウ)に封じて、一躍、諸侯の列に加へてやらう」
これは大きな懸賞である。いでやとばかり、下(しも)は一卒一夫まで、奮ひ立つて、馬超追撃を争ひあつた。
かういふ慾望と情勢の目標にされては、いかに馬超でも堪(たま)るものではない。追詰められ追詰められ、また、取つて返しては敵に当り、踏み止まつては追手と戦ひ、果は、わづか三十騎に討ち減らされ、夜も寝ず、昼も喰はず、ひたすら西涼へさして逃げ落ちた。
龐徳と馬岱とは、途中、馬超とも別れ/\になつてしまひ、遠く隴西(ロウセイ)地方を望んで敗走したが、それと知つて、曹操は自身、
「いま彼等を地方へ潜伏させては」
と、禍(わざはひ)の根を刈るつもりで、飽(あく)までも追撃を加へてゐた。
そして、長安郊外まで来ると、都から荀彧の使が、早馬に乗つて、一書を齎(もたら)して来た。
「北雲急なりと見て、南江の水しきりに堤を断(き)らんとす。すこしも早く、兵を収めて、許都に還り給はんことを」
と、ある。
そこで曹操は、全軍をまとめ、
「ひとまづ引揚げよう」と、軍令を一下した。
左の手を斬落された韓遂を西涼侯に封じ、また彼と共に降参した楊秋、侯選なども、列侯に加へて、それには、
「渭水の口を守れ」
と、命じた。
ときに元、涼州の参軍で、楊阜(ヤウフ)といふ者、すゝんで彼にかう意見をのべた。
「馬超の勇は、いにしへの韓信(カンシン)、英布(エイフ)にも劣らない者です。今日、彼を討ち洩らしてのお引(ひき)揚(あげ)は、山火事を消しに行つて、又山中に火〔だね〕を残して去るやうなもので、危険この上もありません」
「いう迄(まで)もなく、それは案じてゐる。せめて彼の首を見、予自身、半年もゐて、戦後の経略までして還れば万全だが、何せい、都の事情と南方の形勢は、それをゆるさぬ」
「以前、それがしと共に、涼州の刺史をつとめてゐた者で、韋康(イカウ)(ママ)といふ人物があります。よく涼州の事情に通じ民心を得てゐますから、この者に、冀城を守らせ、一軍を領せしめておいたら、大きな抑へともなり、たとひ馬超が再起を計つても、やがて自滅して行くものと考へられますが」
「では、その任を、其(その)方(ハウ)に命じよう。汝と、その韋康と、よく心を協(あは)せて、ふたゝび馬超が勢の根を蔓(はびこ)らせぬやうに努めるがいい」
「それには、一部の御味方をとゞめて、長安の要害だけは、充分お守り下さるやうに」
「もちろんだ。長安の堺(さかひ)には、充分な兵力と、誰(たれ)か然(しか)るべき良将を残して行かう」
すなはち夏侯淵に対して、命は下つた。
「旧都長安には、韓遂をとゞめておくが、彼は、左腕(サワン)を失つて、身のうごきも儘(まゝ)になるまい。汝は、予が腹心、予に成り代つてよく堺を守れよ」
すると、夏侯淵が、
「張既(チヤウキ)、字(あざな)を徳容(トクヨウ)といふ者がゐます。高陵(カウレウ)(ママ)の生れです。これを京兆(ケイテウ)の尹(イン)にお用ひ下さい。張既と力を協せて、必ず、丞相をして二度と西涼の憂(イウ)を無からしめてみせます」
「よろしい。張既ものこれ」
曹操は、乞(こひ)をゆるした。
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なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

