吉川英治『三国志(新聞連載版)』(798)兵学談義(一)
昭和17年(1942)5月2日(土)付掲載(5月1日(金)配達)
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戒めなければならないのは味方同士の猜疑である。味方の中に知らず知らず敵を作つてしまふ心なき業(わざ)である。
が、その反間苦肉をほどこした曹操の方から観れば、いまや彼の軍は、西涼の馬超軍に対して、完全なる、
敵中作敵
の計に成功したものといへる。
味方割れ、同時に、和睦の決裂だ。——馬超は、自ら放(つ)けた火と、自ら招いた禍(わざはひ)の兵に趁(お)はれて、辛くも、渭水の仮橋まで逃げのびて来た。
顧みると、龐徳、馬岱とも散々(ちり/゛\)になり、つき従ふ兵といへば、わづか百騎に足らなかつた。
「やあ、あれに来るは、李湛ではないか」
西涼を出るときは、八旗の一人と恃(たの)んでゐた旗本。もちろん味方と信じてゐると、その李湛は、手勢をひいてこれへ近づくや否、
「や。あれにをる。討ち洩らすな」
と、自身も真つ先に、鎗をひねつて、馬超へ撃つて蒐(かゝ)つた。
馬超は驚いて、
「貴様も謀反人の片割か」
赫怒(カクド)して、これに当ると、李湛は、その勢に恐れて、馬を回(かへ)しかけた。
すると、一方から又、曹操の部下于禁の人数が、わつと迫り、于禁は軍勢の中に揉まれながら、弓をつがへて、馬超を遠くから狙つてゐた。
弦(つる)音(おと)と共に、馬超は馬の背に屈みこんだので、矢は、ぴゆんと、反(そ)れて行つた。
皮肉にも、その反(そ)れ矢は、李湛の背に中(あた)つて、李湛は馬から落ちて死んだ。
馬超は、わき目もふらず、于禁の人数へ馳け入つた。そしてさんざんに敵を蹴ちらし、渭水の橋の上に立つて、ほつと大息をついてゐた。
夜は更け、やがて夜が明(あけ)そめる。
馬超は橋上に陣取つて、味方の集合を待つてゐたが、やがて集まつて来たのは、悉(こと/゛\)く敵兵の声と敵の射る箭(や)ばかりだつた。
橋畔の敵勢は、刻々と水(みづ)嵩(かさ)を増す大河のやうに、囲(かこみ)を厚くするばかりである。かくてはと、馬超は幾度も橋上から奮迅して、敵の大軍へ突撃を試みたが、その度に、五体の手傷を殖(ふ)やして、空しく又、橋上に引つ返すほかなかつた。
のみならず、左右の部下は、ふたゝび橋の上に帰らず、或(ある)者は矢に中(あた)つて、ばた/\目の前に仆れてゆくので、
「こゝで立往生を遂げるくらゐなら、もう一度、最後の猛突破を試み、首尾よく重囲を斬り破れば、一方へ拠つて再挙を計らう。又もしそれも成らずに斃(たふ)れる迄(まで)も、ここで満身に矢をうけて空しく死ぬよりまだ増しだぞ」
残る面々をうち励まして、わうつと、猛牛が火を負つて狂ひ奔るやうに、馬超はふたゝび橋上を馳け出した。
「つゞけ」
「離れるな」
と、馬超の将士四、五十人も死物狂ひに突貫した。人人を踏み、馬馬を踏み、曹軍の一角は、血を煙らせて、わつと分れる。
けれど、馬超に従ふ面々は、随処にその姿を没し、彼はいつか、たゞ一騎となつてゐた。
「近づいてみろ。この命のあらん限りは」
鎗は折れたので、疾(と)うに投げ捨てゝゐる。敵の矛を奪つて薙(な)ぎ、敵の弩弓(いしゆみ)を取つて、撲(なぐ)りつけ、馬も人も、さながら朱で描いた鬼神そのものだつた。
——が、いくら馬超でも、その精力には限度がある。もうだめだと、ふと思つた。
(もう駄目)
それをふと、自分の心に出した時が、人生の難関は、いつもそこが最後となる。
「くそつ、まだ、息はある」
馬超は気づいて、自分の弱音を叱咤した。そして又、目にも見餘る敵軍に押し揉まれなが、小(こ)半(はん)刻(とき)も奮戦してゐた。
折しも西北(いぬゐ)の方から一手の軍勢がこれへ馳けて来た。思ひもよらず味方の馬岱、龐徳だつた。曹軍の側面を衝いて忽ち遠く馳けちらし、
「それつ、いまの間に」
と、ばかり馬超の身を龐徳が鞍わきに抱きかゝへると、雲か霞(かすみ)かのやうに、遠く落ちて行つた。
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