吉川英治『三国志(新聞連載版)』(794)火(か)水(すゐ)木(もく)金(きん)土(ど)(四)
昭和17年(1942)4月26日(日)付掲載(4月25日(土)配達)
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案のぢやう、それから程なく夏侯淵の手勢、苦戦に陥つ、と報(し)らせが来た。
捨てゝも措けず、曹操はすぐ自身救援に赴いたが、敵勢は、
「曹操が出て来たぞ」
と伝へあふや、却(かへ)つて、意気を旺(さかん)にした。
のみならず、馬超は、曹操の中軍を割つて、
「天下の賊。逃げるな」
と、彼を追(おひ)馳(か)け追(おひ)廻(まは)した。
所詮、力づくでは敵(かな)はぬと思つたか、曹操はまた氷の城塞へ逃げこんでしまつた。併(しか)し、その間に、苦戦をしのんで、一方の兵力を割(さ)き、渭水の西から、大兵を渡してゐた。
「出よ、曹操。——汝は蓑虫(みのむし)の性(シヤウ)か、穴熊の生れ変りか」
馬超は氷城の下まで迫つて、罵つてゐた。
ところへ、後陣の韓遂から伝令があつて、
「後方に異状が見える」
と、いふ急報。
暁(あかつき)早く、馬超は総勢を収めて、陣地へ帰つた。その日、情報に依ると、
「昨夜、渭水の西を渉(わた)つた大軍は早くもお味方の背後へまはつて、陣地の構築を始めてゐます」
掌(て)から水が漏れたやうに、韓遂は、
「うしろへ廻つたか。……遂にうしろへ?」
駭然(ガイゼン)とさけんだ。
そこで韓遂は、万事は休すと思つたか、方針一転を馬超に献言した。如(し)かず、これまで斬取つた地を一時曹操に返し、和睦をして、この冬を休戦し、春と共に〔べつ〕な計をお立てなさい、といふのである。戦機を観ると、さすが慧眼だつた。
楊秋、侯選などの幕将も、
「もつともなほ説」
と、みな馬超を諫めた。
数日の後、楊秋は一書を携へて、曹操の陣へ使した。和睦の申入れである。
曹操は内心、渡りに舟と思つたが、まづ使者を返して後、謀将の賈詡にこれを計つた。
賈詡はいふ。
「明かに偽降(ギカウ)です。が、突放す策もよくありません。和睦をゆるし、こちらはこちらで、手を打てばよい」
「手を打つとは」
「馬超の強さは、韓遂の戦略があればこそです。韓遂の作戦は、馬超の勇があつてこそ、生きて来ます。ふたりを相疑はせて疎隔してしまへば、西涼勢とて、枯葉を掃くやうなものぢやありませんか」
次の日。
馬超の手もとへ、曹操から返簡が来た。色よい返事である。併(しか)し、馬超はなほ数日疑つてゐた。
「曹軍は、この二三日、後方の支流に浮橋を架けて、都へ引揚る通路を作つてゐるが、いかにも〔わざ〕とらしい。曹操の部下徐晃と朱霊の軍は、なほ渭水の西にあつてうごかないぢやないか」
「奇(キ)、正(セイ)。かう二態は、軍隊の性格で怪しむに足りません。併(しか)し要心は必要でせう」
と、韓遂も油断せず、一陣は西に備へ、一陣は曹操の正面に向け、厳として気を弛(ゆる)めなかつた。
敵方の警戒ぶりを聞くと、曹操は、賈詡をかへりみて笑つた。
「まづ、成就だな」
やがて約束の日、曹操は盛装を凝(こら)して、おびたゞしい諸大将や武者をひきつれ、自身条約の為、場所へ出向いた。
まだこのやうな豪壮絢爛な軍隊を見たこともなく、曹操の顔も知らない西涼の兵隊は、途々に堵列(トレツ)して、
「あれは何だろ?」
「あれが曹操か」
などゝ、物珍しげに、指さし合ふ。
曹操は、駿馬に跨(また)がり、錦袍金冠のまばゆき姿を、すこし左右にうごかして、
「やよ、西涼の兵ども、予を見て、珍しと思ふか。見よ、予にも、眼は四つは無く、口は二つないぞ。たゞ異るのは智謀の深さだけだ」
と、戯れを云つた。
戯れにはちがひないが、西涼の軍勢は、その笑ひ顔に震(ふる)ひ怖れて、みな口を結んでしまつた。
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