吉川英治『三国志(新聞連載版)』(791)火(か)水(すゐ)木(もく)金(きん)土(ど)(一)
昭和17年(1942)4月23日(木)付掲載(4月22日(水)配達)
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渭水は大河だが、水は浅く、流れは無数に岐(わか)れ、河原が多く、瀬は早い。
所に依つて、深い淵もあるが、浅瀬は馬でも渡れるし、徒渉もできる。
こゝを挟んで、曹操は、北の平野に、野陣を布(し)いて、西涼軍と対してゐたが、夜襲朝討の不安は絶え間がない。
「曹仁、早くせい」
曹操は常に急(せ)き立てゝゐた。
半永久的な寨(とりで)の構築をである。曹仁は、築造奉行となつて、渭水の淵に船橋を架け、二万人の人夫に石材木を運搬させ、沿岸三ケ所に仮城を建つべく、日夜、急いでゐた。
西涼の馬超は、知つてゐたが、
「まあ、造らせておけ」
そして工事が八、九分ぐらゐまで出来たかと見えたところで、
「それ、焼討にかゝれ」
と、河の南北から渉(わた)つて、焰硝(エンセウ)、枯柴(かれしば)、油弾(ユダン)などを仮城へ投げかけ、河には油を流して火をかけた。
船筏(ふないかだ)も浮橋も、見事に炎上してしまつた。何で製したものか、梨子(なし)か桃の実(み)ぐらゐな鞠(まり)をぽん/\抛(はふ)る。踏み潰(つぶ)しても消えない。ばつと割れると油煙が立ち、大(おほ)火傷(やけど)をする。そしてなほ燃え旺(さか)る。
かういふ厄介な武器を持つ西涼軍に対して、さすがの曹操も、殆(ほとん)ど頭を悩ましてしまつた。
智者(チシヤ)荀攸(ジユンシウ)が云ふ。
「渭水の堤を利用し、土塁を高く築いて、蜿蜒(エンエン)、数里のあひだを、壕(ほり)と土壁(ドヘキ)との地下城としてしまふに限りませう」
「地下城。なるほど。土の地下城では、焼討も計れまい」
更に、人夫三万を加へ、孜々(シヽ)として、地を掘らせた。
坑(あな)から上げた土は、厚い土壁とし、数条の堤となし、壇となし、こゝに蟻地獄のやうな土工業が約一ケ月も続いた。
さながら埃及(エヂプト)のピラミッドを見るやうな土城(ドジヤウ)が竣工しつゝある。西涼軍の方からも眺められてゐたにちがひない。然(しか)し、手を下しかねてゐるものか、暫(しばら)く夜襲も焼討もなかつた。
すると、渭水の水が一日増しに涸(か)れて来た。かなり雨が降り続いても水が増えない。変だと思つてゐると、一夜、豪雨が降りそゝいだ。その翌朝である。
「津浪だつ」
「洪水だつ」
物見が絶叫した。
人馬を高い所へ移すいとまもなく、遙か上流のほうから、真つ黒な水煙りをあげて、奔々(ホン/\)と激浪が押して来た。
遠い上流の方で、もう半月も前から、西涼軍が、堰(せき)を作つて、河水を溜めてゐたものである。
何で堪(たま)ろう。小石(こいし)交(まじ)りの河原土なので、土城は一朝にして崩れてしまつた。壕も坑(あな)も埋(うづ)まつて跡形もない。
九月に入つた。
北国のならひで、もう雪が降りだしてくる。灰色の密雲がふかく天を蔽(おほ)つて、こゝ幾日も雪ばかりなので、両軍とも、兵馬をひそめたまゝ睨み合つてゐた。
「西涼の胡夷(えびす)どもは、寒さに強いし、また潼関へも引(ひき)籠(こも)れるが、味方はこの野陣のまゝでは、冬中吹雪に曝(さら)されてをらねばならぬ。何とか、よい工夫はないか」
曹操とその幕将が、その日も頻(しきり)に討議してゐるところへ、飄然、名を告げて、この陣営へ訪れて来たものがある。
「これは、終南山(シウナンザン)の隠居、道号を夢梅(ムバイ)といふ翁(をきな)でござる」
容(かたち)も凡(ボン)ではない。
曹操が、見て、
「何しに来たか」
と、問ふと、夢梅は、
「この夏頃から、丞相には、渭水の北に城寨(とりで)を築かうとなされてゐるらしいが、なぜ火(ひ)水(みづ)に潰(つい)えぬ城をお造りにならぬかと、愚案を申しあげに来ましたのぢや」
と、云ふ。
なほ、夢梅道人が云ふには、
「これから必ず北風が吹きませう。小石交りの河原土でも、急に、それを構築し、築地(ツイヂ)した後へすぐ水をかけておけば、一夜にして凍りつき、いちど凍つた堅さは、これから春までは解けません。要するに、氷の城ですから、火に焼かれる惧(おそ)れもなく、河水に流される心配もありますまい」
告げ終ると、老翁はすぐ、飄乎として、どこかへ立(たち)去つた。
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