吉川英治『三国志(新聞連載版)』(790)渭水(ゐすゐ)を挟んで(五)
昭和17年(1942)4月22日(水)付掲載(4月21日(火)配達)
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韓遂は重ねて云つた。
「味方にとつて、茲(こゝ)に一つの悩みがあります。それはこの戦ひが延引すると、曹操が今の陣地に塁壕(ルイゴウ)を構築して、不落の堅城としてしまふことで、さうなると、容易に渭水を抜くことはできません」
馬超も同感だつた。
「いかにも、攻めるなら今のうちだが」
「軽兵を率ゐて、この韓遂が、曹操の中軍へ突撃しませう。あなたは、北岸を防いで、敵兵が河を越えて来ないやうに、よくこの本陣を固めてゐてください」
「よし。防ぐには、自分一手で足りる。御身ひとりでは心もとない。龐徳をも連れて行かれるがよからう」
韓遂と龐徳とは、直(たゞち)に、西涼の壮兵千餘騎を選んで深夜から暁にかけて、曹操の陣を奇襲した。
けれど、この計画は、まんまと曹操の思ふ〔つぼ〕に落ちたものであつた。かねてこの事あるべしと、曹操は、渭南の県令から登用した校尉丁斐の策を用ひて、河畔の堤の蔭に沿うて仮陣屋を築かせ、擬兵(ギヘイ)偽旗(ギキ)を植ゑならべて、実際の本陣は、すでにほかへ移してゐたのである。
のみならず、附近一帯に、塹(ほり)をめぐらし、それへ棚をかけて、また上から土をかぶせ、陥(おと)し穽(あな)を作つておいたのを、西涼勢はさうとも知らず、
「わあつ」
と喊声(カンセイ)をあげながら殺到したのだつた。
当然、大地は一時に陥没し、人馬の落ちた上へ、また人馬が落ち重なつた。
阿鼻、叫喚、救(たす)けを呼ぶ声、さながら桶の泥鰌(どぢやう)を見るやうだつた。
「しまつた」
龐徳は、手足に絡む味方を踏みつぶして、漸く坑(あな)から這ひ出して、坑口(あなぐち)から槍の雨を降らしてゐる敵兵十人餘りを、一気に突(つき)伏せ、
「韓遂つ。韓遂つ」
と、呼びながら、主将のすがたを捜してゐた。
そのうちに、敵の曹仁の一家(イツカ)曹永(サウエイ)といふものに出合つた。
龐徳は、渡り合つて、一刀の下に、曹永を斬(きり)伏せ、その馬を奪つて、更に、敵の中へ猛走して行つた。
韓遂も、坑に墜ちて、すでに危かつたが、龐徳が一時敵を追ひちらしてくれたので、その間に、土中から躍り出し、これも拾ひ馬に跳び乗つて、辛くも死地をのがれることが出来た。
何にしても、この奇襲は、大惨敗に終つてしまつた。
敗軍を収めてから、馬超が損害を調べてみると、千餘騎のうち三分の一を失つてゐた。
数としては、少かつたともいへるが、馬超の心をひどく挫(くじ)いたものは、かの旗本八旗のうちの程銀と張横のふたりが敢(あへ)ない死をとげたことだつた。
しかし壮気さかんな馬超は、
「かうなれば、猶(なほ)更(さら)、曹操が野陣してゐるうちに撃破してしまはねば、永久に味方の勝目はない」
と、その日のうちに、第二次襲撃を企てゝ、今度は身みづから先手に進み、馬岱、龐徳をうしろに備へて、ふたゝび魏の野陣を夜襲した。
ところが、さすがに曹操は、百錬の総帥だけあつて、
「今夜、また来るぞ」
と、それを豫察してゐた。
馬超の性格と、初度の敵の損害の少かつた点から観て、早くも、さう覚(さと)つてゐたから、馬超の第二次強襲も、何の意味もなさなかつた。
六里の道を迂回して、西涼の夜襲隊が、曹操の中軍めがけて、不意に突喊(トツカン)してみたところ、そこは四方に立並ぶ旗や幟(のぼり)ばかりで、幕舎のうちには、一兵もゐなかつたのである。
「やや。空陣だ」
「さては」
と、空を搏(う)つてうろたへた悍馬(カンバ)猛兵が、むなしく退き戻らうとするとき、一発の轟音を合図に、四面の伏勢(フクゼイ)がいちどに起つて、
「馬超を生かして還すな」
と、犇(ひし)めいた。
西涼軍の一将成宜はこのとき魏の夏侯淵に討たれ、そのほかの将士も夥(おびたゞ)しく傷(きずつ)けられた。馬超、龐徳、馬岱など、火花をちらして善戦したが、結局、敗退のほかなかつた。
かくて、西涼軍と中央軍とは、渭水を挟んで一勝一敗を繰返し、勝敗は容易につかなかつた。
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