吉川英治『三国志(新聞連載版)』(788)(ママ)渭水(ゐすゐ)を挟んで(四)
昭和17年(1942)4月21日(火)付掲載(4月20日(月)配達)
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曹操ですら九死に一生を得たほどであるから、この他、いたる所で、曹軍の損害は夥(おびたゞ)しいものがあつた。
渭水の流れが忽ち赤く変じたのでも分る。浮きつ沈みつ流れて来る人馬は殆(ほとん)ど魏の兵であつた。
それでも、この損害は、まだ半分で済んでゐたと云つてよい。なぜならば、曹軍の敗滅急なりと見て、こゝに渭南(ヰナン)の県令(ケンレイ)丁斐(テイヒ)といふ者が、南山(ナンザン)の上から牧場の牛馬を解放して、一散に山から追ひ出したのである。奔牛(ホンギウ)悍馬(カンバ)は、止まる所を知らず、西涼軍の中へ駈けこんで暴れまはつた。
いや、暴れたゞけなら、何も戦闘力を失ふほどでもなかつたらうが、根が北狄(ホクテキ)の夷兵(イヘイ)であるから、
「良い馬だ。勿体ない」
と、奪ひあい、牛を見ては、猶(なほ)更(さら)のこと、
「あの肉は美味(うま)い」
と、食慾を奮ひ起して、思ひがけない利得に夢中になつてしまつたものだつた。
そのために西涼軍は、せつかくの戦を半ばにして、角笛(つのぶえ)吹いて退(ひ)いてしまつた。
その頃、曹操は北岸へ上つて、一息ついてゐるといふので、魏の諸将も追々集まつて来た。
許褚は満身に矢を負ふこと、簑(みの)を着たやうであつたが、人々の介抱を拒んで、
「丞相はおつゝがないか」
と、そればかり口走つてゐた。
「貴体には何の御異状もない」
と、人々は慰めて、漸く彼を陣屋の内に寝かしつけた。
曹操は、部下の見舞をうけながら、甚しく快活に、終始、けふの危難を笑ひばなしに語つてゐたが、
「さう/\、渭南の県令を呼んでくれ」
と、丁斐を召寄せ、
「今日、南山の牧(まき)を開いて、官の牛馬をみな追出したのはおまへか」
と、質(たゞ)した。
丁斐は、当然、罪をかふむる(ママ)ものと思つて、
「私です。御処罰を仰ぎます」
と、悪びれずに云つた。
「処分してやる」
と、曹操は祐筆(イウヒツ)を顧みて何か云つた。祐筆はすぐ一通の文を認(したゝ)めて来て、丁斐に授けた。
「丁斐、披見してみろ」
丁斐が畏(おそ)る/\開いてみると、今日ヨリ汝ヲ典軍校尉(テングンのコウヰ)ニ命ズ、といふ辞令であつた。
校尉丁斐は、感泣して、
「長くこの渭南に県令としてをりましたので、いさゝか地理には精通してゐます。鈍智の一策をお用ひ賜はらば、光栄これに過るものはありません」
と、恩に感じるの餘り、自分の考へてゐる一計略を進言した。
一方、西涼の馬超は、
「けふばかりは、残念だつた」
と、韓遂に向つて、無念さうに語つてゐた。
「もう一歩で、曹操を、手捕りにできた所を、何といふ男か、曹操を背なかに負つて、船へ跳び移つてしまつた。今でも目に見える心地がするが、敵ながらあの男の働きは、凡夫の業(わざ)でない」
韓遂は何度も頷(うなづ)いて、
「それは道理です。あれは有名な魏の一将、許褚ですからね」
「許褚といふか」
「お味方に、八(ハチ)旗(キ)の旗本ある如く、曹操もその旗本に精鋭中の精鋭を選び、これを虎衛軍(コヱイグン)と名づけて、常に親衛隊としてゐました。その大将に二名の壮将を置き、ひとりは陳国(チンリウ)(ママ)の人、典韋と申し、よく鉄(くろがね)の重さ八十斤もある戟(ほこ)を使つて、勇猛四隣を震はせてゐましたが、この人はすでに戦歿して今はをりません。その残るひとり譙国(セウコク)の人、すなはち許褚です。強いわけですよ」
「なるほど、それでは——」
「その力は、奔(はし)る牛の尾を引いて曳きもどしたといふ程ですからな。——で世間のものは、彼を綽名(あだな)して、虎痴(コチ)といつてゐます。また、虎侯(ココウ)ともいふさうです」
そして又、韓遂は、かたく馬超に忠告した。
「以後は、あの男を陣頭に見ても、一(イツ)騎(キ)討(うち)はなさらない方がよろしい」
斥候(セキコウ)の報告に依ると、曹操の軍は、それから後しきりと河を越えて、西涼の背後を衝(つ)かうとする態勢にあるとあつた。
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