吉川英治『三国志(新聞連載版)』(787)(ママ)渭水(ゐすゐ)を挟んで(三)
昭和17年(1942)4月19日(日)付掲載(4月18日(土)配達)
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みな顔を見あはせた。
ひとり徐晃は進んで、忌憚(キタン)なく答へた。
「この儘(まゝ)、潼関の敵と睨みあひしてゐたら、一年たつても勝敗は決しますまい。それがしが考へるには、渭水の上流下流は、さしもの敵も手薄でせうから、一手は西の蒲津(ホシン)を渡り、また丞相は河の北から大挙して越えられゝば、敵は前後を顧みるに遑(いとま)なく、陣を乱して潰滅を早めるにちがひないと思ひますが……」
「徐晃の説は大いに良い」
曹操は賞(ほ)めて、
「では今、汝に四千の兵を与へるから、朱霊(シユレイ)を大将とし、それを扶(たす)けて、先に河の西を渡り、対岸の谷間(たにあひ)に潜んで予の合図を待て。——予も直に、渭水の北を渡つて、呼応の機を計るであらう」
と、即座に手筈を極(き)めた。
それから間もなく、西涼の陣営馬超の手(て)許(もと)へ、すぐ早耳(はやみゝ)迅眼(はやめ)の者が、
「曹操の方では、船筏(ふないかだ)を作つて頻(しき)りと渡河の準備をしてゐます」
といふ情報が入つた。
韓遂は手を打つて、
「若将軍、敵は遂に、自ら絶好な機会を作つて来ましたぞ。兵法に曰(い)ふ。——兵(ヘイ)半(なかば)ヲ渉(わた)ラバ撃ツ可(ベ)シ——と」
「ぬかるな、諸将」
八方に間者を放つて、曹軍が河を渡る地点を監視してゐた。
とも知らず、曹操は、大軍を三分して、渭水のながれに添ひ、まづ一手を上流の北から渡して、その成功を見とゞけ、
「まづ、首尾はよささうだ」
と、水際に床几(シヤウギ)をすゑながら、刻々と報(し)らせて来る戦況を聞いてゐた。
「上陸した御味方は、すでに対岸の要所々々、陣屋を組み、土塁を構築しにかゝつてゐます」
すると、第二第三とつゞいて来る伝令が云つた。
「今、南の方から、敵とも御味方とも分らぬ一隊が、馬煙(うまけむり)をあげて、これへ来ます」
第五番目の伝令は、
「御油断はなりません。御用意あれつ」
と、呶(ど)鳴(な)つて、
「白銀(しろがね)の甲(よろひ)、白の戦袍(したゝれ)を着た大将を先頭にし、約二千ばかりの敵が、どこを渡つて来たか、逆襲して来ます。——いや、うしろの方からです」
と狼狽して云ふ。
その時、大軍は河を渡りつくして、曹操のまはりには、たつた百餘人しかゐなかつた。
「馬超ではないか」
愕然と、人々は騒ぎ立つたが、剛復(ガウフク)な曹操は、
「騒ぐな」
と、のみで床几から起たうともしない。
ところへ、許褚が船を引返して来て、その態(さま)を見るやいな、
「丞相々々。敵は早くも、味方の裏を搔(か)いて、背後に廻つてゐますつ。早くお船へお移り下さい」
と、呼ばはつた。
曹操は猶(なほ)、
「馬超が来たとて、何程の事があらう。一戦を決するまで」
と、自若としてゐたが、もうそのとき彼方の馬煙(うまけむり)は、辺り間近に、土砂を降らせて、馬超、龐徳を初め、西涼の八旗など、猛然、百歩のところまで迫つてゐた。
「すは。一大事」
と、許褚は躍り上つて、曹操の側へ馳けつけ早く早くと促したが、事の急に、いきなり曹操の体を背中へ負つてしまつた。
そして岸辺まで、一気に馳け出したが、船は漂ひ出して渚(なぎさ)から一丈を離れてゐた。それを許褚は、曹操を背に負つた儘(まゝ)、
「おうつ」
と叫んで、一跳びに身を躍らせ、危くも舟の中へ乗り移つた。
百餘人の近侍、旗本たちは、ざぶざぶと水に浸(つか)つて、溺れるもあり、泳ぎ出すもあり、そこらの小舟や筏(いかだ)へすがりつき、或は見境なく、曹操の舟へしがみついて来るのもある。
「たかるな。舟が傾く」
許褚は、それらの味方を、棹(さを)で払ひ退(の)けながら、逃げ出したが、水勢は急で、見るまに下流へ押ながされて行く。
「のがすな」
「あれこそ、曹操」
西涼の兵は、弓を揃へて、雨の如く乱箭を送つた。許褚は、片手に馬の鞍を持ち、片手に鎧の袖をかざして、曹操の身を庇(かば)つてゐた。
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