吉川英治『三国志(新聞連載版)』(787)渭水(ゐすゐ)を挟んで(二)
昭和17年(1942)4月18日(土)付掲載(4月17日(金)配達)
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「けふの乱軍に、絶えず予の後を守つて、よく馬超の追撃を喰ひ止めてゐたのは誰(たれ)だ」
曹操は、味方の内へ帰ると、すぐかう訊ねた。
夏侯淵が答へて
「曹洪です」
と云ふと、曹操はさもありなんといふ顔して、うれし気に、
「さうか。たぶん彼だらうとは思つたが……。先日の罪は、今日の功を以て宥(ゆる)し措くぞ」
やがてその曹洪は夏侯淵に伴はれて恩を謝しに出た。曹操は、今日の急々を思ひ出して、幾度か死を覚悟した事など語り出し、
「自分も幾度となく、戦場にのぞみ、また惨敗を蒙(かうむ)つたこともあるが、凡(およ)そ今日のやうな烈しい戦ひに出合つたことはない。馬超といふ者は敵ながら存外見上げたものだ。決して汝等も軽んじてはならぬ」
と戒めた。
敗軍をひき纏(まと)めた曹操は、河を隔てゝ岸一帯に逆茂木(さかもぎ)を結ひまはし、高札を立てゝ、
「みだりに行動する者は斬る」
と、軍令した。
建安の秋十六年、その八月も暮(くれ)かけてゐたが、曹軍は、秋風の下に寂と陣して固く守つた儘(まゝ)、一戦も交へなかつた。
「胡夷(えびす)の兵め。また対岸で悪口を放つてゐるな。忌々(いま/\)しい奴らだ」
業(がう)(ママ)を煮やした曹軍の諸将が、或る時、曹操をかこんで、
「いつたい北夷の兵は、長槍の術に長(た)け、また馬の良いのを持つてゐるので、接戦となると、剽悍(ヘウカン)無比ですが、弓、石(いし)火(び)箭(や)などの技術は、彼等のよくする処でありません。ひとつ、専ら弩(つよゆみ)を以て一戦仕掛けては如何でせう」
と、進言した。
すると、曹操は苦りきつて、
「戦ふも、戦はぬも、みなその腹一つにあることで、何も敵の心にあるわけぢやない」と云ひ、そして又、
「下知に反(そむ)くものは、軍罰に処すぞ。たゞ部署に就(つい)て、守りを固うし、一歩も陣外へ出てはならん」
と、再度の布令を出した。
曹操の肚をふかく察しない部将たちは、囁(さゝき)き合つて、首を傾げた。
「どうしたんだらう。いくら馬超に追ひ捲(まく)られて、お懲(こり)になつたからといへ、今度に限つて、ひどく消極戦法の一点張りぢやないか」
「そろそろ、お年齢(とし)のせゐかも知れんよ、銅雀の大宴を境として、御(お)髪(ぐし)にもすこし白いものが見えて来たしな。……花にも人間にも、盛衰はある、春秋は拒(こば)まれぬ」
果(はた)して、曹操には、もうそのやうな老(おい)が訪れ出したのだらうか。
凡人の客観と、英雄自身の主観とには自(おのづか)ら隔たりもあり、信念のちがひもある。
われ老いたり、などゝは曹操自身、まだ、夢にも思つてゐないらしい。いやその肉体や精神のつかれ方などに、若い頃の自身とくらべて、多分な相違が自覚されても、怖らく、彼自身そんな気持が〔ふと〕でも湧くときは、強ひてそれを抑圧して、
我れなほ若し!
といふ血色を漲(みなぎ)らさうと努めてゐるのにちがひなかつた。
数日の後、味方の斥候がかう告げた。
「潼関の馬超軍に、又々、新手の敵兵が、約二万も増強されたやうです。しかも今度の新手も悉(こと/゛\)く北の精猛な胡夷(えびす)ばかりです」
聞くと、曹操は、なぜか独り大いに笑つた。
「丞相、何でお笑ひなさるのですか。敵が強力になつたと聞かれて」
ひとりが問ふと、
「まづ、酒宴して、祝はうか」
と、のみで、その夕べ、大いに慶賀して、共に盃を傾けた。
しかし、今度は、幕将たちの方がくす/\笑つた。
曹操は酔眼を向けて、
「卿(ケイ)等は、予が、馬超を討つ計(はかりごと)がないのを笑ふのであらう」
みな恐れて、口をつぐんでしまつた。曹操は追求して、
「ひとを笑ふほどな計策のある者は、大いにこゝで蘊蓄(ウンチク)を語れ。予も聞くであらう」と、云つた。
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