吉川英治『三国志(新聞連載版)』(786)渭水(ゐすゐ)を挟んで(一)
昭和17年(1942)4月17日(金)付掲載(4月16日(木)配達)
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曹操の本軍と、西涼の大兵とは、次の日、潼関の東方で、堂々対戦した。
曹軍は、三軍団にわかれ、曹操はその中央にあつた。
彼が馬をすゝめると、右翼の夏侯淵、左翼の曹仁は、共に早(はや)鉦(がね)を打ち鼓を鳴らして、その威風に更に気勢を加へた。
「胡夷(えびす)の子、朝威を怖れず、どこへ赴(ゆ)かうとするか。あらば出でよ、人間の道を説いてやらう」
曹操の言が、風に送られて、彼方の陣へ届いたかと思ふと、
「おう、馬騰の子、馬超字は孟起(マウキ)。親の讐(かたき)をいま見るうれしさ。曹操、そこをうごくなよ」
とゞろく答へと共に、陣鼓一声、白(しろ)斑(まだら)な悍馬(カンバ)に乗つて、身に銀甲をいたゞき鮮紅(センコウ)の袍(ハウ)を着、細腰(サイエウ)青面(セイメン)の弱冠な人が、颯(サツ)と、野を斜めに駈け出して来た。
「若大将を討たすな」
と案じてか、それにつゞく左右の将には龐徳、馬岱。また八旗の旗本、鏘々(サウ/\)とくつわを並べて駈け進んでくる。
「あれか。馬超とは」
近づかぬうちから、曹操は内心一驚を喫した様子である。文化に遠い北辺の胡夷(えびす)勢と侮つてゐたが、決して、彼は未開の夷蛮ではない。
「やよ。馬超」
「おうつ。曹操か」
「汝は、国あつて、国々のうへに、漢の天子あるを知らぬな」
「だまれ、天子あるは知るが、天子を冒(をか)して、事々に、朝廷を〔かさ〕に着、暴威を振(ふる)ふ賊あることも知る」
「中央の兵馬は、即ち、朝廷の兵馬。求めて、乱賊の名を受けたいか」
「盗人猛々しいとは、其(その)方(ハウ)のこと。上(かみ)を犯すの罪。天(テン)人(ひと)倶(とも)にゆるさざる所。あまつさへ、罪もなきわが父を害す。誰(たれ)か、馬超の旗を不義の乱といはうぞ」
云ふことも、確乎(しつかり)してゐる。これは口先でもいかんと思つたか、曹操は馬を退(ひ)いて、
「あの童(わつぱ)を生捕れ」
と、左右の将にまかせた。
于禁と張郃が、同時に、馬超へをどりかゝつた。馬超は、左右の雄敵を、あざやかに交(かは)しながら、一転、馬の腹を高く覗かせて、うしろへ廻つた敵の李通(リツウ)を槍で突き落した。
そして、悠々、槍をあげて、
「おゝういつ……」と一声さしまねくと、雲霞のやうに凝(じつ)としてゐた西涼の大軍が、いちどに、野を掃いて押(おし)襲(よ)せて来た。
その重厚な陣、粘り強い戦闘力、到底、許都の軍勢の比ではない。
たちまち駈け押されて、曹軍は散乱した。馬岱、龐徳は、
「この手に、曹操の襟がみを、引つ摑(つか)んでみせる」
と、乱軍を潜(くゞ)り、敵の中軍へ割りこみ、血まなこになつて、その姿を捜し求めた。
そのとき、西涼の兵が、口々に、
「紅(くれなゐ)の戦袍(ひたゝれ)を着てゐるのが、敵の大将曹操だぞ」
と、呼ばはり合つてゐるのを聞いて、当の曹操は逃げ奔(はし)りながら、
「之(これ)は目印になる」
と、あわてゝ戦袍を脱ぎ捨てゝしまつた。
するとなほ執拗に追ひかけて来る西涼兵が、
「髯(ひげ)の長いのが曹操だ。曹操の髯(ひげ)には特長がある」
と、叫んでゐた。
曹操は、自分の剣で、自分の髯(ひげ)を切つて捨てた。
今日こそは——と期して、味方の馬岱、龐徳よりも先んじて曹操を捜してゐたのはもちろん馬超で、父の讐(あだ)たる彼の首を見ぬうちは退(ひ)かじと馬を駈け廻してゐたが、ひとりの部下が、彼に告げて、
「髯(ひげ)の長いのを目〔あて〕に捜してもだめです。曹操は髯(ひげ)を切つて逃げました」
と、教へた。
そのとき、曹操は、乱軍の中に交(まじ)つて、すぐそばを駈けてゐたので、そのことばを小耳に挟むと、
「これはいかん」
と、あわてたものとみえ、旗を取つて面(おもて)を包み、無二、無三、鞭を打つた。
「首を包んだものが曹操だぞ」
又、四方で声がする。曹操はいよいよ魂をとばして林間へ駈けこんだ。すると誰(たれ)か、槍を伸ばして突いた者がある。運よく槍は樹木の肌を突いて、容易に抜けない。曹操はその間髪に辛くも遠く逃げのびた。
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