吉川英治『三国志(新聞連載版)』(785)不倶戴天(四)
昭和17年(1942)4月16日(木)付掲載(4月15日(水)配達)
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潼関に着いた曹洪と徐晃は、一万の新手をもつて鍾繇に代り、堅く守つて、
「われわれが参つたからには、これから先、尺地も敵に踏みこませることではない」
と、曹操の来着を待つてゐた。
西涼の軍勢は、力攻めを熄(や)めてしまつた。毎日、壕の彼方に立ち現れて、大(おほ)欠伸(あくび)をしてみせる。手(て)洟(ばな)をかむ。尻を叩く、大声だけ悪〔たれ〕をいふ。
挙句の果には、草の上に寝ころんだり、頰杖ついて、
敵はどこかね
潼関の関中ださうだ
櫓にゐたのは鴉(からす)ぢやないのか
なあに曹洪と徐晃さ
そんなら大して変りはない
腰抜対手の戦争は退屈だ
いまに曹操が来るだらう
昼寝でもして待つとするか
乞ふ戦友、耳(みゝ)垢(くそ)でも取つてくれ
などと悪罵に〔ふし〕を付けて唄つてゐる。
「待つてゐろ。目にもの見せてやるから」
歯(は)嚙(が)みをした曹洪が、城門から押出さうとするのを見て、徐晃がいさめた。
「丞相のおことばを忘れたか。十日の間は固く守れ。手出しはすなと仰せられた」
然(しか)し、若い曹洪は振切つて、駈出した。
関中の大軍は、いちどに溢れ出て、鬱憤をはらした。あわてふためく西涼軍を追ひ捲(まく)して、
「思ひ知つたか」
と、四角八面に分れ討つた。
徐晃の手勢も、ぜひなく後から続いて出たが、
「長追ひすな、長追ひすな」
と、大声で止めてばかりゐた。
すると、長い堤(つゝみ)の蔭から、突忽(トツコツ)として鼓(つゞみ)の声、銅鑼(ドラ)のひゞき、天地を震はせ、
「西涼の馬岱これにあり」
と、一(イツ)彪(ペウ)の軍馬が衝いてくる。
いさゝかたじろいて、陣容をかため直さうとする間もなく、
「たいへんだ、敵の龐徳が、退路を断つた」と、いふ伝令。
「まづい!引揚げろ」
踵を巡らしたときは機すでに遅しである。どう迂回して出たか、西涼の馬超と韓遂が関門を攻めたてゝゐる。いや徐晃、曹洪が出払つたあとなので、守りは手薄だし、油断のあつたところだし、精悍なる西涼兵は、芋虫のやうに、ぞろぞろ城壁へよぢ登つてゐるではないか。
留守の鍾繇はもう逃げ出してゐる始末、罵り合つてみたものゝ追ひつかない。曹洪、徐晃も支へ得ず、関の守りを捨てゝ走つた。
馬超、龐徳、韓遂、馬岱、万餘の大軍は関中を突破すると、潼関の占領などは目もくれず、ひたすら潰走する敵を急追して、
「殲滅(センメツ)を加へん」
と、夜も日も、息をつかせず、後から追つた。
曹洪も徐晃も、途中多くの味方を失ひ、わづかに身ひとつ遁(のが)れ得た有様である。——が、許都へさして落ちる途中まで来ると、許都を立つて来た本軍曹操の先鋒に出会ひ、辛くもその中に助けられた。
曹操は、聞くと、
「すぐ連れて来い」
と、中軍へ二人を呼び、そして軍法にかけて、敗戦の原因を糺問(キウモン)した。
「十日の間は、かならず守備して、うかつに戦ふなと命じておいたに、なぜ軽忽(ケイコツ)な動きをして、敵に乗ぜられたか。曹洪は若手だからぜひもないが、徐晃もをりながら、何たる不覚か」
叱られて、徐晃は、ついかう自己辯護してしまつた。
「おことばの如く、切にお止めしたのですが、洪将軍には、血気にまかせて、頑として肯(き)かないのでした」
曹操は、怒(をこ)(ママ)つて、
「軍法を正さん」
と、自身、剣を抜いて、甥(をひ)(ママ)の曹洪に、剣を加へようとした。
「——いや、それがしも同罪ですから、罪せられるなら手前も共に剣をいたゞきます」
徐晃も、身をすゝめて、神妙にさういふし、諸人も皆、曹洪のために命乞ひしたので、曹操もわづかに気色を直し、
「功を立てたら宥(ゆる)してやらう」
と、暫く斬罪を猶豫した。
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