吉川英治『三国志(新聞連載版)』(784)不倶戴天(三)
昭和17年(1942)4月15日(水)付掲載(4月14日(火)配達)
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馬超はふかく礼をのべて、
「その御返辞は、後ほど邸から致します」
と云つて帰つた。
家に帰ると、彼はすぐ曹操の使者を斬つてしまひ、その首を、韓遂のところへ届けた。
「それでこそ、君は馬騰の子だ。君がその決心ならば」
と、韓遂は即日やつて来て、馬超軍に身を投じた。
西涼の精猛数万、殺到して、茲(こゝ)に、潼関(ドウクワン)(陝西省)へ攻かゝる。
長安(陝西省・西安)の守将(シユシヤウ)鐘繇(シヨウエウ)(ママ)は、驚死せんばかりに仰天して、曹操の方へ、早馬をもつて、急を告げる一方、防ぎにかゝつたが、西涼軍の先鋒馬岱に蹴ちらされて、早くも、長安城へ逃げ籠る。
長安は今、廃府となつてゐたが、むかし漢の皇祖が業を定めた王城の地。さすがに、要害と地の利は得てゐる。
「この土地の長く栄えない原因は、二つの缺点があるからです。土質粗く硬く、水は鹹(しほから)くて飲むにたへません。もう一つの缺所は山野木に乏しく、常に燃料不足な事です。……ですからかういふ謀計を用ひれば、難なく陥るにちがひありません」
龐徳の言であつた。
そのことばを容れたものか、馬超は急に包囲を解いて、数十里、陣を退(ひ)いた。
守将の鐘繇(ママ)は、
「寄手が囲みを解いたからといつて、みだりに城外へ出てはならん。敵にどんな計があらうも知れない」
と、軍民を戒めてゐた。
しかし三日たち四日経つうちに、無事に馴(な)れて、一つの城門が開くと、西も東も、各所の門で、城外との往来が始まつた。
みな水を汲みに行き、薪を採りに行く。其他の食糧なども、この間にと、争つて運び入れた。
「何事もありませんね」
「敵はあんな遠くですからな」
「左様。もしもの時は、敵を見てから城内へ逃げこんでも、結構、間に合ひますよ」
うらゝかなものだつた。
果(はて)は、旅藝人や雑多な商人まで、自由に出入し始めた。
ところへ急に、西涼軍がまた攻めて来た。軍民は夕立に出会つたやうに城内へかくれ込む。馬超は、西門の下まで、馬を寄せて、
「こゝを開けなければ、城内の士卒人民、悉(ことごと)く焼き殺すぞ」と罵つた。
鐘繇(ママ)の弟、鐘進(シヨウシン)がこゝを守つてゐたが、から/\と笑つて、
「馬超。口先で城は陥(おち)るものぢやないよ」
と、矢倉から嘲(あざけ)つた。
すると、日没頃、城西の山から怪しい火が燃え出した。鐘進が先に立つて消火に努めてゐると、夕闇の一角から、
「西涼の龐徳、すでに数日前より、城内に在つて、今宵を待てり」
といふ大音(ダイオン)が聞え、敵やら味方やら知れない混雑の中に、鐘進は一刀両断に斬りすてられた。
早くも、龐徳の部下は、西門を内から開いて、味方を招き入れた。馬超、韓遂の大軍はいちどに流れこみ、夜のうちに長安全城を占領してしまつた。
鐘繇(ママ)は、東門から逃げ出し、次の潼関に拠つて、急を早馬に託し
「至急、大軍の御来援なくば、長くは支へきれない」
と、許都へ向つて悲鳴を揚げた。
曹操の驚愕は、いふ迄(まで)もない。——急に、方針を変へて、
「ひとまづ、征呉南伐の出兵は見合せる」
と、参謀府から宣言を発し、また直(たゞち)に、曹洪と徐晃を招いて、
「すぐ潼関へ行け」
と、兵一万をさづけた。
曹仁がそのとき、
「曹洪も徐晃も、若過ぎますから、血気の功に焦心(あせ)つて、大局を過(あや)まる惧(おそ)れはありませんか」
と、注意した。そして自分も彼らと共に先駆けせんと願つたが、
「そちは、予に従つて、兵糧運輸のほうを司(つかさど)れ」
と、ほかの役目を命じられてしまつた。
曹操は約十日の後、充分な軍備をとゝのへて出発した。彼も西涼の兵には、よほど大事を取つてゐることがこれを見ても分る。
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