吉川英治『三国志(新聞連載版)』(783)不倶戴天(二)
昭和17年(1942)4月14日(火)付掲載(4月13日(月)配達)
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西涼州の馬超は、或夜、ふしぎな夢をみた。
「吉夢だらうか。凶夢だらうか」
あくる日、八旗の将に、この夢のことをはなした。
八旗の将とは、彼を繞(めぐ)る八人の優れた旗本組のことである。
それは、
侯選(コウセン)。李堪(リタン)(ママ)。張横(チヤウワウ)。梁興(レウコウ)。成宜(セイギ)。馬玩(バグワン)。楊秋(ヤウシウ)。
などの面々だつた。
「さあ。わからんなあ。吉夢やら凶夢やら」
みな武弁ばかりなので、彼の夢に判断を下し得る者もなかつた。
馬超のみた夢といふのは、千丈もある雪の中に行き暮(くれ)て仆(たふ)れてゐるところへ、多くの猛虎が襲ひ蒐(かゝ)つて来て危く咬(か)みつかれようとしたところで眼がさめたといふのである。いゝ夢らしくもあり、悪夢らしくも考へられた。——するとこの座へ突然、
「いや、それは大悪夢だ」
と云ひながら帳を排して入つて来た一人物がある。南安(ナンアン)狟道(クワンダウ)の人で姓名を龐徳(ホウトク)、字(あざな)は令明(レイメイ)といふものであつた。
「むかしから雪中に虎に遭ふの夢は不祥の兆(しらせ)としてある。もしや上洛中の大殿(おほとの)騰将軍の君に、何か凶事でも起(おこ)つたのではなからうか」
龐徳のことばに、馬騰の嫡男たる馬超は、当然、面(おもて)を曇らせた。
いや馬超ばかりでなく、この西涼に留守して、遠くにある主君の身を明暮れ案じてゐる八旗の将もみな浮かない顔をしてしまつた。
「しかし、逆夢(さかゆめ)といふこともあれば、若大将には、一圖に御心配なさらぬがようござる。何の、夢など〔あて〕になるものですか」
わざと酒宴をすゝめて、馬超の心をまぎらはせてゐた。
けれど、この夢は、やはり正夢であつた。——その夜の事、見る影もない姿となつて、許都から逃げ落ちてきた従兄弟(いとこ)の馬岱が、
「叔父(シユクフ)の将軍には、曹操の兇刃に害され給ひ、御(お)子(こ)達(たち)二人も、ほか御一族、家中の者、老幼の端にいたるまで八百餘人、残らず一つ邸のうちにあつて火を放(か)けられ、あらかたは殺され、或は首斬られ、目もあてられぬ災難でした。それがしは逸(いち)早く墻(かき)を跳びこえ、この通り身を乞食に窶(やつ)してこれまで逃げのびて来た次第。……語るも無念で堪(たま)りません」
と、涙ながら報じた。
「えつ、父上が殺されたと」
馬超は、愕然とさけんだ。そして蒼白な顔を、うむと呻いて仰向けたと思ふと、うしろへ仆(たふ)れて昏絶してしまつた。
もちろん典医や大勢の介抱ですぐ意識は蘇(よみがへ)つたが、終夜、寝房のうちから無念さうな泣声(なきごゑ)が洩れてきた。
かういふ中に玄徳の書簡は遙々(はる/゛\)と荊州から来た密使に依つて、馬超の手に渡されたのである。その文章はおそらく孔明が起草したのであらう。まづ漢室の式微を云ひ、馬騰の非業の死を切々と弔ひ、曹操の悪逆や罪状を説くに極めて峻烈な筆鋒(ヒツポウ)をもつて是(これ)を糺(たゞ)し、そして馬超が嘆きをなぐさめ且つ激励して、
——貴君にとつては倶(とも)に天を戴(いたゞ)かざる父の仇敵、四民にとつては悪政専横の賊、漢朝にとつては国を紊(みだ)し帝威を冒(おか)す姦党、それを討たずして武門の大義名分があらうか。ねがはくば君、涼州より攻上れ、劉玄徳また北上せん。
と、結んであつた。
次の日である。
父馬騰と親友だつた鎮西将軍(チンゼイシヤウグン)韓遂(カンスヰ)からそつと迎へが来た。行つてみると、人払ひした閑室へ馬超を通して、
「実は、こんな書面が曹操から来てゐるよ」
と、それを見せてくれた。
もし馬超を生捕つて檻送してよこせば、汝を封じて、西涼侯にしてやらう、といふ意味のものだつた。
馬超は自ら剣を解いて、
「あなたの手にかゝるものなら仕方がない。いざ、都へ差立てゝ下さい」
と、神妙に云つた。
韓遂は、叱つて、
「それくらゐなら何もわざ/\ここへ御身を呼びはしない。もし御身に、父の讐(あだ)たる曹操を討つ気があるなら、義に依つて、わしも一臂の力を添へたいと思つたからだ。いつたい御身の覚悟はどうなのだ」
と、却(かへ)つて、馬超の本心を詰問した。
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