吉川英治『三国志(新聞連載版)』(780)馬騰の一族(二)
昭和17年(1942)4月9日(木)付掲載(4月8日(水)配達)
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帝の御(おん)目(め)には、涙があふれかけてゐた。
恐懼して、ひれ伏したまゝ、馬騰は御胸のうちを痛察した。
嗚呼(あゝ)、朝廷のこの式微(シキビ)。
見ずや、許都の府は栄え、曹操の威は振ひ、かの銅雀臺の春の遊びなど、世の耳目を羨ますほどのものは聞くが、こゝ漢朝の宮廷はさながら百年の氷室(ひむろ)のやうだ。楼臺は蜘蛛の巣に煤(すゝ)け、珠簾(シユレン)は破れ、欄は朽ち、帝の御衣(ギヨイ)さへ寒げではないか。
「……馬騰。忘れはをるまいな。むかし国舅(コクキウ)の董承と汝へ降(くだ)した朕の衣帯の密詔。……あの折は、未然に事やぶれたが、このたびそちが上洛の由を聞いて、いかに朕が心(こゝろ)待(まち)してゐたかを察せよ」
「かならず宸襟(シンキン)を安め奉りますれば、何とぞ、御(み)心(こゝろ)つよくお持ち遊ばすやうに」
馬騰は泣いた眼(まなこ)を人に怪しまれまいと気づかひながら宮門を退出した。
邸(やしき)に帰ると、ひそかに一族を呼んで、帝の内詔を伝へ、
「かくとも知らず、いま曹操はこの馬騰に兵馬をあづけて、南方を伐(う)てといふ。これこそ、実に天の与へた秋(とき)ではないか」
と、勤王討曹の旗(はた)挙(あげ)を密議した。
それから三日目である。
曹操の門下侍郎(モンカジラウ)黄奎(クワウケイ)といふものが、馬騰を訪れて、
「丞相の御内意ですが、なにぶん、南伐の出兵は、急を要します。御発向はいつに相成らうか。それがしも行軍参謀として参加するが」
と、催促した。
「直(たゞち)に立ちます。明後日には」
馬騰は、酒を出して、黄奎をもてなした。
すると黄奎は、大いに酔つて、古詩を吟じ、時事を談じたりした挙句、
「将軍はいつたい、真に伐つべきものは、天下のどこにゐると思うてをられるか」
などと云ひ始めた。
馬騰は警戒してゐた。あぶない口車と感じたからである。すると黄奎は、その卑怯を叱るやうに眦(まなじり)をあげ唇を咬(か)んで、
「自分の父の黄琬は、むかし李確(リカク)(ママ)郭氾(クワクシ)(ママ)が乱をなした時、禁門を守護して果てた忠臣です。その忠臣の子がいまは、心にもなく、僭上(センジヤウ)な奸賊の権門に屈して、その祿を食(は)んでゐるとは実になさけない。然(しか)し、将軍のごときは、西涼州の地盤と精猛な兵を多く持つてゐるのに、何だつて不忠な奸雄に頤(あご)で使はれて甘んじてをらるゝのか」
と、まるで馬騰を責めるやうな口(くち)吻(ぶり)になつて来た。
馬騰はいよ/\空とぼけて、
「奸賊の、不忠のと、それは抑(そも)、誰(たれ)のことを云はれるのか」
「もちろん曹操のことだ」
「大きな声を召さるな。丞相は足下(ソクカ)の主君ではないか」
「それがしは漢の名将の子、将軍も漢朝の忠臣馬援が後胤ではないか。そのふたりが漢朝の宗室たる劉玄徳を伐ちに向はれるか。しかも逆臣の命に頤使(イシ)されて」
「いつたい、足下(ソクカ)はそのやうな言を本気で云ふのか」
「あゝ、残念。将軍はそれがしの心底をなほ疑つてをられるとみえる」
黄奎は指を咬(か)んで血をそゝぎ、天も照覧あれと盟(ちかひ)した。
行軍参謀たるこの人物が同心ならば、いよ/\事は成就に近い。馬騰はつひに本心を明かした。黄奎は聞くと、膝を打つて、
「ほかならぬ将軍の事。さもあらんと思つてゐたが、果たせる哉、密々(ミツ/\)詔(みことのり)まで賜はつてをられたか。——あゝ、時節到来」
と、狂喜した。
そこでまづ二人は、関西の兵を促す檄文を起草し、都下出発の朝、勢揃ひと称して、曹操の閲兵を乞ひ、急に陣(ヂン)鉦(がね)を鳴らすを合図に、曹操を刺し殺してしまはうと、すべての手筈まで諜(しめ)し合せた。
黄奎は夜おそく家へ帰つた。さすがに酒も発せず、すぐ寝房(ねや)へ入つた。彼には妻がなく、李春香(リシユンカウ)といふ姪(めい)が彼の面倒を見てゐた。
李春香には自分から嫁(とつ)ぎたく想つてゐる男があつたが、心がらが良くないので叔父の黄奎が承知してくれない。今宵もそれが遊びに来たらしく、彼女は仄(ほの)暗い廊の蔭で男と何か立(たち)話をしてゐた。
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次回 → 馬騰の一族(三)(2026年4月10日(金)18時配信)
昭和17年(1942)4月10日付の夕刊では吉川英治「三国志」は休載でした。これに伴い、明日4月9日の配信はありません。

