吉川英治『三国志(新聞連載版)』(779)馬騰と一族(一)
昭和17年(1942)4月8日(水)付掲載(4月7日(火)配達)
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龐統はその日から、副軍師中郎将に任ぜられた。
総軍の司令を兼ね、最高参謀府にあつて、軍師孔明の片腕にもなるべき重職に就いたわけである。
建安十六年の初夏の頃。
魏の都へ向つて、早馬を飛ばした細作(サイサク)(諜報員)は、丞相府へ右の新事実を報告(ホウコク)旁々(かた/゛\)、つけ加へてかう述べた。
「決してばかにできないのは荊州の勃興勢力です。孔明の下に、関羽、張飛、趙子龍の三傑があるところへ、今度は副軍師龐統を加へ、参謀府に龍鳳の双璧が並び、その人的陣容は、完(まつた)く茲(こゝ)に成つたといふ形です。——故に近頃は、専ら兵員拡充と、軍需の蓄積に全力をそゝぎ、いまや荊州は毎日、兵馬の調練、軍需の増産や交通、商業などの活潑なこと、実に目ざましいものがあります」
これはやがて、曹操の耳へ届いて、少からず彼の関心を喚(よ)び起した。
「果せる哉(かな)。月日を経るほど、玄徳は、魏にとつて最大な禍(わざはひ)となつて来た。——荀攸(ジユンシウ)そちに何か考へはないか」
「捨てゝは措けず、と云つて、今(いま)直(たゞち)に、大軍を催すには、いかんせん、わが魏には猶(なほ)、赤壁の痛手の癒えきらないものがありますから、遽(にはか)に無理な出兵も考へものです」
さすがに、荀攸は、常に君側にゐても、よく軍の内容を観てゐた。
曹操もうなづいて、
「それを実は、予も、敵国の勃興以上に、憂えてゐるところだ」と、正直に云つた。
「かうなさい——」荀攸は立ちどころに献策した。
「西涼州(甘粛省、陝西奥地一帯)の太守馬騰をお召になり、彼の擁してゐる匈奴の猛兵や、今日まで無傷に持たれてゐる軍需資源を以て、玄徳を討たせるのです。そしてなほ大令を発し給へば、各地の諸侯も挙(こぞ)つて参戦しませう」
「さうだ。辺境の奥地には、まだ人力も資材も無限に埋蔵されてゐる」
曹操はすぐ人を選んで西涼へ早馬を立て、二の使として、すぐ後から又、有力な人物を向けて、軍勢の催促を云ひ遣(や)つた。
涼州の地は支那大陸の奥(おく)曲輪(ぐるわ)である。黄河の上流遠く、蒙疆(モウケウ)に境(さかひ)(ママ)する綏遠(スヰヱン)、寧夏(ネイカ)に隣接して、未開の文化は中原のやうに華やかでないが、多分に蒙古族の血液を交(まじ)へ、兵は強猛で弓槍馬技に長じ、しかも北方の民の伝統として、常に南面南出の本能を持つてゐる。
ところで、太守馬騰は、字(あざな)を寿成(ジユセイ)といひ身長七尺餘、面鼻(メンビ)雄異(ユウイ)、然(しか)し性格は温良な人だつた。
元、漢帝に仕へた伏波将軍(フクハシヤウグン)馬援(バヱン)の子孫で、父の馬粛(バシユク)の代に、官を退いて、馬騰を生んだのである。
だから馬騰の血の中には、蒙古人がまじつてゐる。嫡子を超(テウ)といい次男を休(キウ)といい、三男を鉄(テツ)といふ。
「詔(みことのり)とあれば、行かなければなるまい」
馬騰は一門の者に別れを告げて都へ上つた。三人の子息は国に残し、甥の馬岱(バタイ)を連れて行つた。
許都に来て、まづ曹操に会ひ、荊州討伐の任をうけ次の日朝廷に上つて、天子を拝した
命は、曹操から出ても、名は勅命である。曹操の意志は決して、天子の御心ではなかつた。
「このたびは老骨に、荊州討伐の大命を仰せつけられて……」と、馬騰が拝命のお礼を伏奏すると、帝は無言のまゝ彼を伴つて、麒麟閣へ登つて行かれた。
そして誰(たれ)もゐない所で、帝は初めて口を開かれ、
「汝の祖先馬援は、青史(セイシ)にも遺(のこ)つてゐる程な忠臣であつた。汝も、その祖先を辱(はづか)しめることはあるまい。——思へ。玄徳は漢室の宗親である。漢朝の逆臣とは、彼にあらず、曹操こそそれだ。曹操こそ朕を苦しめ、漢室を晦(くら)うしてゐる大逆である。馬騰!そちの兵はそのいづれを伐(う)ちに来たのか」
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